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小雨のそぼ降る庭先で、慶次は丸くなって地面に落書きをしている、見覚えのある子供を見つけた。そこそこ太い木の棒でがりがりと雨でぬかるんだ地面を削っている子供は、何やら夢中になっていて慶次に気付かない。
近所(と言っても駆けずり回って漸く見つけた一軒家)で聞いた、小売業者のところから野菜を譲ってもらって、とりあえず下見不足の汚名より更に役立たずという汚名の上塗りを防いだ慶次は、まあ、怏々な気分の中にも少し晴れがましいものを混ぜた複雑な胸中で帰ってきたのだけれど。
(こんな雨の中で、傘もささずに落書きたぁ、ほっといてる親の気が知れないねぇ)
さもしい朝食(というより菓子)を食べていた朝方からずっと身動ぎせずに落書きに没頭している彼を見て、佐助は苦笑いしてこう言った。
『嗚呼、あの子、お腹空かないみたいだからほっといて良いよ』
正直慶次は佐助に失望した。いくら本人が要らないからといって、雨の止まぬ外にほっぽり出して良いかとは勝手が違う。身勝手さが少々目に余る伊達とは違って、もう少し佐助は思い遣り溢れるこのご時世に珍しい粋な男だと思っていたのに、見込み違いかと慶次は残念に思っていたのだ。
「なあ」
「おお慶次殿、遅うございましたな」
「へ?あ、おう」
落書きに熱中していたのかと思いきや、割り方ちゃんと見ているらしい。
座ったまま振り返った子供の後ろに近づき、傘を差し伸べて描いていた絵を見る。馬に乗った人間同士がぶつかりあう、なかなかシュールな絵だった。子供が描いたようには思えない。首が飛んで落馬した棒人間もいるし。
どんな残酷嗜好だと、一瞬子供の将来を伊達と重ね、いやいやと首を振る。こんなではこの国の将来が主に治安の方面で危ない。
「もうちょっとさぁ、夢のある絵を描こうぜ?花とか動物とかせめて笑った人間とか」
「しかしこの絵の人間全てを笑顔にすると些か不気味な絵になるでござる」
「別にこの絵の人間を笑わせろなんて言ってないじゃないか」
「慶次殿は注文が多いでござるなぁ」
鬱陶しそうに子供は眉根を潜め、投げ遣り気味に花を描いた。やはり今時の子供の感性で描けるような絵ではなかった。
「ところで慶次殿、何故ご自分に傘をささぬのでござるか?」
「あん?だって濡れちゃうじゃん」
「某のことなればお気遣い無用。この棒を持っている限り、手が汚れることは致し方ありませぬが、体は冷えませぬ」
「まぁたお得意の幽霊ごっこ?そんなとこだけ子供っぽいんじゃ将来良い嫁さん捕まえることなんかできないぜ?」
まさかこんな子供が恋愛の醍醐味など理解できるはずもなかろうが、一瞬驚いたような顔をした子供はへんにゃりと笑って言った。
「某、色恋事は好きませぬ」
やけに落ち着いた声で言うものだから、慶次はぎょっとして子供を見た。年を重ねず老獪を得たような言い振りに思わずぐっと眉を寄せる。
「そんな毛嫌いするもんじゃないぜ、恋ってのはさ」
「人に良き感情ではありましょう。なれど某は不器用ゆえ、どうもそういった駆け引きは不得手でござる。槍を持って、戦場を駆ける方が性に合っておりまする」
なんと生臭いことを言う子供なのだろうか。慶次はしゃがみ込んで子供と目線を合わせる。何の特筆もない、強いて言えば格好が着物なだけの、小学校に行けばすぐに紛れてしまいそうな子供だった。先刻ふいと感じた子供の達観は一体何だろうか。
慶次は首を傾げた。
「お前さんは一体何者なんだい?」
子供は笑って慶次の背中に飛び乗った。寸でまで雨に打たれていたくせに、ひやりとも、暖かいともつかぬその矮躯は、ただ膨らませた風船が乗っているような感覚がした。何より、重みがない。
「某はただの幽霊でござる」
幽霊はそんなぞんざいなものではない。取り敢えず、回された腕が自分の首を絞めないことを祈った。
***
譲ってもらった野菜をごとごと袋を逆様にして出したら、乱暴に扱うなと佐助に叩かれた。きゃっきゃとまだ頭上で子供が笑っている。
「意外だなぁ。佐助信じなさそうなのに」
「しかたないじゃん。疑って伊達みたいに泣かせたくないし」
「信じてんじゃないの?」
「半々ね」
子供はにこりと笑った。
「半分でも良い。まだこっちにいられるからな」
「成仏とか、考えなかったわけ?」
「某の居場所など浄土にはもうない。某はほんの一部に過ぎぬ。大半はもう昇華し、また人間として生まれておろう」
「つまり残り滓、と」
「ひどいな!」
いひひ、と子供は悪びれもなく快哉に笑った。恨み言ひとつ吐かない幽霊に、慶次は何だか親しみを感じた。
「なぁなぁ、名前はねぇの?呼び難いじゃん」
佐助は野菜をいくつか吟味した後、ちらりと子供を見てから蛇口を捻った。少し逡巡した様子だった子供は、困った顔のまま、 「弁丸と呼んで下され」 と言った。
「弁丸。弁丸…ふうん」
先刻この弁丸が描いた落書きには、馬と槍と、人間がいた。戦国の世から江戸までのいずれかに生きていたのだろう。町民は疫や飢餓で敢え無く死ぬ時代だった。この子供もそうなのかと、がりがりに痩せ細って死ぬのを想像して、思わず目を瞑った。