2
すん、すん、と鼻を鳴らして頭を押さえる子供を見て、あーあー、子供相手に何やっちゃってんのこの人、と佐助は伊達を見た。伊達も流石にやりすぎたと思ったのか、子供の頭を殴った拳を胸の前で固めてばつの悪そうな顔をしている。
「子供相手に大人気ないなぁ政宗」
「う、うるせぇな」
「とりあえずどこの子?親御さんは?」
「…………」
子供は恨めし気に伊達を見遣り、ぷいと横を向いてしまった。完全に拗ねた様子のそれに慶次は更に伊達を責め募らせる。悪役に立ち回ってしまったことを漸く痛感したのか、伊達は碌な反論も寄越せない。
とりあえず佐助は子供の頭を撫でてみた。子供は些か驚いたような顔で佐助の顔を見る。涙で潤んだ大きな目に佐助の困った顔が映り込み、目玉が落ちそうだと表現したどこぞの作家を賞賛した。まさにそんな感じ。
「もう夕飯の時間だけど帰らなくて良いの?親とか心配してんじゃない?」
「いや、その、…心配する人間など…」
「あ、もしかして家出少年かい?俺もよく放浪して利やまつ姉ちゃんに怒られたなあ」
「話逸らさないでくんないかな前田のダンナ」
子供は依然何かを言い澱み、政宗や慶次や佐助を見上げている。涙はもう引いていた。
「そなたら、某に触れるのか?」
「ん?」
「というか、某が見えるんだな」
この子供は頭がおかしいのだろうと佐助は思った。でなければ、先刻伊達に殴られた拍子に頭の主要な螺子がぼろりと落ちたか。
慶次は呆れ顔で子供を見た。
「おいおい、怒られるのが怖かったら俺が取り成しても良いから、うちに帰りなよ。夜遅いって」
「帰る家など疾うに滅びた!」
子供は黒々とした目をくりくりさせて吊り上げる。何かの悪い冗談でも、家が滅びたとはまた性質の悪い。冗談過ぎるぞと、苦笑いしながら捕まえようとする慶次の手を擦り抜けて、子供は伊達の背中に隠れた。殴られた相手だというのに、よくも臆することなく寄れるものだ。つくづく現金な子供に差し置かれて、佐助は溜め息を吐いた。
「Hey kid、諦めて家に帰れよ」
「嫌でござる」
これまた古風な物言いをするものだ。時代劇にでも影響されたのか。
伊達が子供を背中から引きずり出す。負けじと子供も足を踏ん張るが、如何せん子供と育ち盛りな現役高校生とでは体力に差があるというもの。あっさり慶次に引き渡されるが、子供は往生際も悪く暴れていた。
「何故斯様に集団で集るのだ!」
「意味わかって言ってんのかねぇ、このお子様は」
「子供ではない!某は…放せ!」
布団が蹴り上げられる。佐助はそれを避け、蚊帳の外へ抜け出た。やってられない。
荷物を持って土間を出て、水を飲む。温くなったペットボトルを空にし、再び鞄の中に積め込んだ。汗でも掻くかもしれないと持って来たタオルが底に見え、うんざりした。来なければ良かった。
「あ、こら待て」
追いかける慶次の、それなりに楽しそうな声がする。障子がすぱんと開けられたが、誰かが出てくる気配もない。土間を覗いた佐助と出て来た慶次がはち会った。
「あれ?そっちに行かなかった?」
「は?何が?ていうかあの子どうしたの」
「いや、だから、障子開けてそっちに行ったからさ、」
「え、誰も出てこなかったんだけど」
土間を見る。伊達が、 「布団が濡れてんじゃねぇかshit!」 と布団を持ち上げている。
佐助と慶次は目を合わせ、へらりと笑った。
「寝ようか」
「そだな。明日から掃除だし」
夢であれば良い。子供とはいえ、人一人が目の前で消失したなど。
***
今日の朝は小雨がぱらついていた。森に雨垂れの音がやわらかに響く中、寒さに佐助は目を覚ました。真夏だというのに寒さで目覚める珍しい体験をした佐助は、結局濡れそぼった布団に身を包ませるのを是とせず、仕方なく布団から這い出た。蚊帳の中である。大の男が三人横になって色気なく眠るのは構わないのだが、慶次の寝相は狭い蚊帳の中で詰められるようにして眠る上でこの上なく相応しくなかった。夜中に蹴られたのであろう、痛む腰を押さえて目を擦った佐助は、ふと別の寒気を感じて振り返った。
「…、」
「騒ぐとその二人が起きるぞ」
昨日と全く同じ格好で、子供が蚊帳の外で正座をして三人を見ていた。人の家へ勝手に上がることに微塵の罪悪感も感じていないに違いない。
「お前、いつ入ったの」
「昨日の夕方」
「俺達が入る前?」
「いや、一緒だった」
佐助は子供の姿をまじまじと見た。
昔の武家社会に子供が着ているような出で立ちだった。臙脂色の落ち着いた袴に、薄い色の襦袢と着物。こんなある意味特異な格好をしている、況してや人の少ないこの山で、佐助ら三人の目を掻い潜って家に忍び込むなど有り得ない。
「…忍者かなんか?」
「それはお主だろ」
心底嬉しそうに、懐旧に顔を緩ませた子供は、口を三角に開けて微笑んだ。
「でも人間でしょ」
「違う。人間だったら、昨日そなたらに挟まれておめおめと逃げ遂せるわけなかろう」
「じゃあ何」
「単なる枯れ雄花だ」
にまにまと、子供は笑う。それがやけに不快だった。
蚊帳の中でごそりと音がした。振り返ると、佐助の布団に慶次の足が圧し掛かっている。佐助は目を前に戻した。いなくなっていると思いきや、子供はちゃんと正座して佐助と同じく蚊帳の方を見ていた。佐助と目が合うと、にこりと笑む。少しだけ居心地が悪くなった。
「幽霊の正体見たり、って奴かね」
「信じるのか」
「疑う理由がないじゃん」
「そうか」
拍子抜けしたように、子供は瞬いた。ふくふくとした頬が、やたら白い。いっそ青を通り越して灰色に見える。それでも病的な匂いは一切感じない。
「で、何の為にこの家にいるの?この家を建てるときに墓でも退かされた?」
「某の墓石はない。某の骨は頭はどこか、体は大阪だ」
「あ、そう。じゃあ何でここにいるの」
「見守りに」
「………」
「輪廻に落ちた御霊の行方を見守りに」
「………?」
「そういうことだ佐助」
くふりと奇妙に空気の抜けたような音がした。それが子供のはにかみだと気付いたのは数瞬遅れてのことだった。後ろで小さく、猿飛? と伊達の寝惚けた声がしたのだ。ぎくりと身を強張らせた佐助が、再度蚊帳の中へ目を向け、また戻したとき、今度こそ子供の姿はなかった。
よくよく考えれば、あの子供は、凡そ子供らしからぬ言動ばかりを繰り返していた。いや、子供の姿をしたあれは、あのままで幾年過ごしたのだろうか。次がもしあれば、訊いてみるのも一興だと、目の前に広がる水の跡に佐助は知らず微笑む。得体の知れない何かではあるが、何故か胸中は湖面のような穏やかさを湛えている。
雨垂れの弾ける音に紛れて、ぱしゃぱしゃと誰かが走り抜けるような音が聞こえた。