たたん、と実に規則的に横揺れを繰り返す電車と、どこを見ても同じに見える変わり映えしない景色に、少し倦怠を感じ始めた佐助は、向かい合って座る級友に目を移した。
相手にしていられないと呆れて寝入ろうとする男と、それに構って欲しくてちょっかいをかける男。場所は違えど変わることのない遣り取りに、佐助は深く溜め息を吐く。何故せっかくの長期の休みにさえ、こんな馬鹿騒ぎを見なければならないのだろう、と。
主な学生が色めき立つ約一ヶ月と少しの長い夏休み。どこに行こうだとか何をしようだとか、時折下心も入った生徒らの会話を聞いて、自分は特に何に急かされることもなくだらけるのだろうと何となく予想をつけていた佐助の目測は、掠りもしないほどの内角低めなコースで外れた。今頃は宿題や課題や休み明けの試験を忘れて、皆遊び耽っているかもしれないなと課題の半分を終わらせて、一息ついたところに火種は落とされた。


『お前この前バイトクビんなったろ?割の良いバイトあるからやってみねぇ?』


確かに先日バイトをクビになって学校で大っぴらに求人広告を見ていた。課題も一段落ついて暇になり、どれもこれも冴えないものばかりで辟易した頃に飛んできた話だ。今思えば詳細も聞かず二つ返事で了承してしまった自分はおかしかったのだ。
こんな遠いなんて聞いてない!
片道特急で2時間半。交通費は向こう持ちだが、泊りがけなのだそうだ。何でも、元凶となった男の親戚が近々引っ越すらしい。その家の片付けを手伝わされるという話を、佐助は無理矢理乗せられた電車の中で初めて聞いた。


『俺様なんにも聞いてないよ!』
『いくら了承したと言えど、お前気が変わるの早いもん』
『着替えは!?洗面用具は!?』
『向こうにも店くらいあるだろ』


嘘だ。
景色が鬱蒼と生い茂る深い緑になり始め、佐助は思う。店どころか民家もまばらなこの地に、そんな便利なものはない。配線すら通ってなさそうな窓の外を見て、どんなところに住んでたんだこいつの親戚、と相手の脛を蹴る。


「いって!何すんだ!」
「向こうに店があるって、どこにあるんだよ」
「じゃあ俺の貸すって」
「てゆーか帰らせて」
「ぐだぐだうっせぇんだよ、このchick野郎が」


向かいに座る男がただでさえ目付きの悪い目を剣呑に細める。五月蝿くて眠れなかったようだ。
佐助は乗り出しかけた身を不承不承、椅子に引き戻す。彼の言う通り、割の良い仕事ではあるのだと自分に言い聞かせて。


「あ、次で下車な」


降り立った駅は、無人駅だった。塗装の剥がれた木造の柵が軋みながら風に揺れている。真夏だというのに風は少し、冷たい。
車内ではあんなに強気な物言いをしていた友人と、それへ揚げ足を取ることも忘れ、佐助は茫々たる雰囲気にしばし物怖じをした。彼らの様子を知ってか知らずか、メモを広げて友人はさっさと改札を抜けてしまった(改札はやっぱり開きっぱなしだった)。


「おーい佐助ぇ、政宗ぇ、こっちだってよー」


やべぇ、絶対出る!墓地とかあったら確定じゃねーか!
伊達政宗と佐助は一瞬だけ視線を酌み交わし、できるなら帰りたいと思いながら競うようにして友人の慶次の後を追った。




***




メモに寄越された場所は、立派な萱葺きの屋根の家だった。人間の手で一縷の歪みもない分厚い屋根の断面ができるものなのかと感心して首を反って見上げる。一分も経てば背中が痛み出した。


「めちゃくちゃ立派じゃん」
「だろー」


中に入って、荷物を広げている慶次に言う。どこか誇らしげに笑ってこう返された。


「昔は俺も住んでたんだぜ。でも学校とかめっちゃ遠いし、両親はもっと利便な場所求めてたから引っ越さなきゃいけなかったんだよ、俺こっちの家の方が好きだけど」
「ふぅん」
「あ、佐助料理できる?」
「そりゃ人並み程度には…何で?」
「何でも何も、もう親戚の姉ちゃん夫婦は或る程度荷物持って新しい家にいるもん。俺料理できないし政宗何か盛りそう」
「え、ちょ、じゃあ俺達だけでこの家の片付け?」
「おうよ。布団は上ならあるし電気は通ってるから一応短期な生活には困らないし」


佐助は天井を見る。頼り無い裸電球がぶら下がっていた。
駅で感じ、今まで故意にないがしろにしていた不安が俄かに膨れ上がる。男三人が固まっていれば少なくとも身の危険はないだろうが(こんな山間だし)、それとは別の悪寒が足首をがっちり掴んでいるような気がした。しかし、佐助だけが逃げ帰るように帰途を急げば、先刻の比ではない伊達の誹謗が浴びせられるであろう。あまり気の合わない彼に罵られるのは、それだけは佐助の許すところにはない(恐らくこれからも)。
佐助は固い生唾を飲み込み、腹を決めた。どうか五体満足で帰れますように。


「まだ夜には時間あるから、少しでも片付けちまおうぜ」


障子を開けて伊達が欠伸をしながらやってきた。電車で寝ても寝足りないようである。その呑気さにさしもの佐助もその図太い神経にあやかりたいと羨望したりもしたが。


「つーかここ、涼しい癖に蚊がいるのな」
「あー、森の傍だしな。蚊取り線香は持ってっちゃっただろうし…あ、蔵に蚊帳ならあるぜ」
「蚊帳?俺見たことない。快適?」
「快適かはわかんねぇけど餓鬼の頃はそれなりに楽しかったよ。秘密基地ごっことか昔やんなかったかい?」
「あーやったやった。懐かしいなあ」
「俺取ってくる」


慶次は足音高らかに伊達と入れ違いに出ていった。じわじわ鳴く蝉が、耳の裏を粟立たせる。
伊達は警戒するように、佐助は唇を突き出して、お互い微妙な距離を保ち卓を囲んだ。伊達はペットボトルを取り出す。


「どうしたよ。俺何かアンタにした?覚えないんだけど」
「俺だって覚えねぇよ。なんっかお前と相性があいそうにねぇと思ってるけどよ」
「面と向かって言われるなんて俺様も相当嫌われちゃったもんだね」
「お前と仲良しごっこなんて反吐が出る」
「そりゃ結構」


伊達がペットボトルの中の炭酸飲料(もう抜けているだろう。ざまあみろ)を一仰ぎして口を拭った。その仕草が多くの女生徒の間で格好良いと騒がれているようだが、正直言って趣味が悪いのではないかと彼女らが抱いている幻想紛いの懸想を唾棄しても良いが、自分の方がマシと胸を張る度胸も考えも佐助にはない。そもそも張り合ってどうする。
行きと同じくどかどか遠慮のない人柄と同じような足音を響かせ、慶次が戻ってきた。長いポニーテールが些か埃っぽかった気がしないでもない。まさか蔵までも掃除しなければならないのではないだろうなと佐助は危惧した。


「やー懐かしいなぁ!昔も利やまつ姉ちゃんと一緒に張ったもんだ。俺背がまだ小さかったから届かなくて持ち上げてもらったっけー」


土間に勢い良く広げられたそれは、微少の埃を撒き散らして波紋のように広がる。埃に弱いのか、慶次はニ、三度くしゃみを繰り返した。


「んじゃ、張ろうぜ」


彼の人当たりの良い笑顔を真っ先に拒否したのは伊達だった。


「冗談じゃねーぜ!やるならお前と言い出しっぺの猿飛でやれよ。俺はやだね!」
「あーあーこれだから餓鬼大将は」


確かに餓鬼大将気質は頷けるが、佐助のような悪印象を孕んだ響きは、慶次の言葉には一切ない。彼が本気で怒るところなぞ、同じ高校に入ってついぞお目にかかったことはないのだ。この図体も器も声もでかい男が、大音声の怒号を放つなど想像に易そうでなかなかできない。


「そういや、蚊帳を三人で張ると幽霊が出るって迷信があるんだっけ?もしかして政宗それ気にしてんの?」
「…Shit!やりゃあいいんだろうが!」
「そういうこと」


かくて狭範囲ではあるが、三人布団を並べて寝られるくらいの広さに蚊帳を張ることができた。一般の蚊帳を佐助は見たことがないが、それでもこの蚊帳はそこそこ大きい。網が収束する天井を眺め、その閉鎖感に、箱に詰まっているような気がした。少しだけ居心地の良さがわかった。


「何が悲しくてむさっくるしい男が三人並んで寝なきゃなんねぇんだよ」


と伊達が嘆いていた。荷物を置いて、土間を出ながら慶次が取り成す。


「まぁ、あっちより涼しいし、涼があるだけでも良いじゃないか。じゃ、料理頼むな佐助」
「…ていうかさ、その親戚さんがもう新しい家にいるんなら、使える食材どころか冷蔵庫もないんじゃないの…?」
「…」
「………」
「………………………」
「…菓子持ってきて良かったな。とりあえず空腹は凌げる」


こればかりは確認を怠った慶次を責めてもどうしようもなく、建設的な言葉を吐いた伊達に珍しく佐助は賛同した。民家があるかも危ういこの山にコンビニエンスストアがあるかなど誰に聞かずともわかる。料理に乗り気でなかったにしろ、この仕打ちはないよなと肩を落とし、土間へ戻る。
蚊帳の中で着物を着た子供が寝ていた。


「…どこのお子さん?」


蚊帳の中に敷かれた布団の、図々しいことにど真中を陣取り、健やかに寝ている子供に勿論誰もが見覚えなどない。そして、重ねて言うがここは民家があるかも危うい山奥に孤立したような家なのだ。こんな子供が夜、山をふらふら徘徊した末にこの家で力尽きて寝入ってしまったなど、猫が重力を理解するのと並んで奇怪だ。
後ろで慶次がぎゃあ!と叫ぶ。子供がぱちんと目を開けた。


「出たぁ!」
「うわああ!」


怒号ではないにしろ、慶次の大声を聞ける機会があったことに、当然佐助は有り難味など感じない。それよりも、佐助や伊達が続いて第二声第三声と叫ぶより、叫んだ慶次に子供が驚き叫んだことに瞠目する。未だに子供はわあわあと取り乱し、騒ぎ、蚊帳の中で丸い目をして佐助らを見ている。
待て。なんかおかしくないか。