〉信繁って剣道やってただろ。

〉…何を根拠にそのようなことを。

〉別に?何と無くだよ。

〉何と無くで物事を決められるのか、そなた。

〉なあ、またやらないの?

〉………………………やりませぬ。やれませぬ。某に再び竹刀を持つ資格などありませぬ。

〉何でだよ。またやりゃあ良いじゃん。資格とかそんなややこしいの考えないでさ、自分が好きなら立派な理由にならないかい?

〉〉『信繁』さんが退室しました。

〉やれやれ。




*




厠から帰ってきた幸村は、少し顔を腫らして姿を見せた。どうしたの旦那、と佐助が呆然とした声で尋ねたが、幸村は扉にぶつけたと言ってそれ以上の言及を嫌がった。しかし、幸村が何と言おうと見る者が見ればわかる。殴打の痕だ。直ぐ様部屋の中を探る互いの目がかち合った。そして、誰がその場にいないのか知れた頃、幸村を殴ったであろう人物は部屋に入った。佐助が、幸村が止めるのも聞かないで席を立った。


「アンタ旦那を殴ったでしょ」


詰問された人物、政宗は、佐助の剣呑な雰囲気など意にも介さない様子で佐助を眺め回した後、ふと目をそらした。


「ふざけてんの?」
「佐助、止めぬか」
「旦那、」
「言ったであろ、これは某の不注意だ。伊達殿には関係ない」
「聞いただろ。退けよ」


政宗は佐助の肩を掴んで押し退け、部屋を出る前と同じ、部屋の隅を陣取るソファに腰かけた。佐助は憮然とした表情のまま、不満をありありと見せつつも幸村の頬の具合を見る。
けれど慶次は見た。悶着を避けてソファに座ったはずの政宗が、納得できないと言ったような目で幸村を見ていたのを。
穏やかじゃないねぇと口走りそうになったその言葉を、慶次はほろ苦い紅茶と茶請けのケーキで飲み込んだ。殴り合いの喧嘩は好きだが、どうせやるならお互い後腐れのない方がずっと良い。例え幸村だけであろうと、どちらかが納得ずくなら、それで良いではないか。
慶次は紅茶のおかわりを頂くため、のっそりと立ち上がった。


「あ、慶次、俺も」
「えー、自分で行きなよ年寄りじゃないんだからさぁ」
「この中じゃ俺が一番年寄りなんだよ」
「じじい!」
「ついでに湯も代えてきてくれ。勝手への道はわかるな」


元就も慶次にまだ少し熱いポットを押し付ける。何がついでなのか全くわからないが(紅茶をもう一杯もらうのに台所へ行く必要はない)、屋主の元就には流石に逆らえない。


「なんだよ皆して人を荷物持ちに担ぎ上げてさ!」


けたけたと元親が笑う。
そうだ、誰も彼もが彼のようにさっぱりした性格なら良いのに。自分を棚に上げて無茶を思う自分に苦笑し、慶次は元親のカップを預かって部屋を出た。心なしか、中より空気が軽い。


「しまった、手がいっぱいだ」


湯を代えに行くだけならば、カップを持ってくる必要はないのだ。パックは部屋の中なのだから。元親辺りにそれを笑いながら指摘されそうで、しかし、それは今すぐカップを置きに戻っても同じで、慶次はくそうと小さく呟きそのまま台所へ向かった。


「慶次殿」
「んぉ、幸ちゃんか」
「その呼び方はよして頂けませぬか。それではまるで某が女子のようではござらぬか」
「そりゃ幸ちゃんがその口調を止めろって言われるのと同じくらい無理な注文だよ。それで、どうかした?」
「慶次殿が迷わないように案内をしてやれと言われたので」


誰に、とは聞かない。恐らく佐助辺りだろう。幸村がいない間に政宗に尋問するのだ。厄介払い(というのは語弊があるか。何せ幸村はある意味当事者だ)をされたのとわかっているのかないのか、幸村はこちらでござると馬鹿丁寧に慶次を案内している。


「なぁ幸ちゃんは剣道の道に戻らないの?」


ぽつりと言うと幸村はそれを聞き留めて、またでござるかとうんざりしたような顔をした。
慶次の叔父は、教師をしている。だいぶ前に、剣道部の顧問よりも陸上部の顧問の方が良いと家で仕様のない駄々をこねて妻にたしなめられていたのを聞きかじったのだ。それが幸村の母校だと知ったのは、初めての顧問を任された部が、よりによって発足したばかりの癖に大会へ出場できると叔父が喜び勇んで無関係の慶次までもを大会へ招致したからである。何でも、強い選手が入部してきたとか。
慶次には興味のない話だったが、初出場で優勝を狙えると自信を持った叔父の泣き顔を拝みに行った先で、準決勝まで進んでしまったそれを目の当たりにしてしまったのだ。世の中こんな規格外の奴もいるんだなと一瞬垣間見えた幸村の顔を眺め、慶次は会場を去った。叔父はくしゃくしゃに喜んでいるだろうと少し安心して。
幸村に再び会ったのは、それから半年以上経った後のことである。単位が足りずにまた同じ一年を繰り返す羽目になった慶次と同じサークルの佐助が、買い物に連れて歩いていたのだ。声をかけ、簡易的な自己紹介をし、暫く並んで歩いている最中に、慶次は幸村に聞いてみた。
剣道まだ続けてる?
旦那剣道やってたの、と言う佐助を慌ててうやむやにとりなし、慶次を見た幸村の目はこの上なく鋭かった。
何で?
そんな目で睨まれる心当たりがない。




*




「同じ問答を繰り返されるのが実にお好きなようでござるな、慶次殿は」


見下げ果てた、という目で幸村は慶次を見上げた。


「あ、覚えててくれたんだ。あのチャット」
「某が剣道をやっていたことを知る知り合いは、多くありますまい。他に何の質問もなしにそのようなことを問われれば、自分が誰かであることを言っているのも同じ」
「幸ちゃんって案外頭良いよな。常識はないけどさ」
「そなた、某を馬鹿にしているのか…!」


憤怒で紅潮した顔は、殴られた頬を余計目立たせる。痛々しいそれに濡らしたタオルを宛てるように幸村へ渡し、ポットの中のぬるま湯を捨て、やかんの白湯を移し変える。


「っていうかさ、何で剣道辞めたの?」


幸村は先刻の剣幕をどこかへ放り、きょとんと慶次を見返した。


「某が剣道をやっていたことを知っていて、辞めた理由は知らなかったのでござるか?」
「え、ん、まあ」


何故だか無知を自分で知らせたような気になり、慶次はばつが悪そうに頭を掻いた。幸村は幸村でタオルを顔に宛てたまま、間抜けな顔をしている。


「本当に?」
「知らないよ」
「決勝戦まで、見られなかったのでござるか?」
「嗚呼、準決勝までは見たけど時間がさ」
「なれば知らないのは当然のようで」


幸村は何故か不服そうに小さく呟いた。
そういえば、大会が終わってすぐだろうか、叔父がひどく慌てて帰ってきた。妻に何事か言うとまた慌ただしく出ていってしまったが、その妻も、険しい顔で何事か考えているように黙り込んでしまったので、慶次が聞くに聞けなかったということがある。


「某、もう剣道はできぬのでござる」
「だから何で」
「出場権がないからでござる」


確かに出場権がなければ、剣道を続けても大会には出られない。しかし、出場権の剥奪は余程のことがない限り、頻繁に行われるようなことではない。何をやったんだと慶次が幸村の言葉の先を促すと、幸村はタオルを絞ってまた顔に宛てた。今度は自分の顔を覆い隠すように。


「伊達殿が某を殴るのはもっともでござる」
「は?何でそこに飛ぶの」
「決勝戦で、某は、」


幸村は体を大きく震わせそこで言葉を切り、しゃがみこんで鴛のように黙ってしまった。慶次は途方に暮れた。