石油の原油価格の高騰に、元親はううん、と唸った。ただでさえ偏狭的な仕事だというのに、これ以上首を絞められる事態はごめんである。
そう思いながらため息を吐いて、元親は新聞を閉じた。今から人と会うのにしんけ臭い顔を見せていられない。四折りに新聞を畳んで小脇に抱えた頃、ちょうど電車が着いたのか、駅の改札から人の群れがどっと溢れた。




*




元親は造船業の跡取りである。昔から機械をいじるのが好きだった元親は、しかし十の歳になるまでは見目などとても女々しかった。やんちゃ盛りの近所の餓鬼共が彼のことを姫とからかったのも頷ける容姿だったのだ。言い返す度胸がなかったほど気弱さには、彼の生い立ちが根座している。
彼は、生まれつき左目が見えなかった。薄く濁った目を覗き込む度に元親は戦慄した。おまけに髪の色まで人よりも薄く、体もあまり丈夫ではなかった。子宮にいたときに、何らかの変事が作用したのかもしれない、この子供は長く生きられないと医者からも脆弱のお墨付きを受けた元親だが、けれど成人になって数年経た今、例え髪が更に真っ白になろうとも病床に臥すこともなければ急死する気配もいっこうにない。きっと自分の心臓には毛が生えたのだと元親は鷹揚かつ曖昧に事象を捉えた。
彼が気になるのは飽くまで原油高騰の行方で、最低でも下で働いてくれる部下やその家族を養える程度に仕事をこなすことだ。つまらない自分という足枷なぞ、ダンボールにくるんで捨ててしまえ。


「…本当にやる気なのか、貴様…」


警戒心も露に、滲んだ声が元親を攻める。剣呑な堅さに元親は苦笑いを溢した。


「頼むよ毛利。きっと人も集まるだろうしさ」
「そんな心配をしておるのではないわ!よくもぬけぬけと、その間抜け面を我の前で見せられるものよ」
「毛利、」


苦々しげに、しかも憎々しげに、幼少の頃より知己の仲である元就は元親を睨む。
小中高とも同じ学校を母校と仰ぎ、卒業時に再び会うことはないだろうと思って別れたというのに、何故か互いに縁のなかったこの街で再会を果たしたとき、やたら目眩を感じたものだ。あのときの感慨を返せ。


「仕方ねぇだろ。お前は外を出歩けねぇし、閉じ籠ってた奴らを外に引っ張れるんならそれに越したことはねぇ」
「詭弁を申すな。大体、家に篭っていた者共の拠にとあれを作った挙げ句、その言い草のお前が、因りによって管理者の立場であるお前が職に就いていると知ったら、その者らが何を思うかなど想像に易いわ!」


そんなこと元親だって知っている。しかし今の元就に何を言っても無駄だろう。


「わかってるさ。お前に協力を仰ぐのはこれきりだ」
「ならば良かろう長曽我部。我に迷惑を被らなければ好きにすれば良い」


冷ややかに言い捨て、元就は元親に見向きもせずに襖を閉めた。また、奥の部屋に篭るのだろう。
相変わらず傲慢高飛車驕奢極まりない人間である。それでも、それが元就の全てではないと知る元親は、この家を場として設けてくれる元就に感謝した。面と向かって礼を言われ慣れないであろう彼に胸中でこそりと。




*




お前の予想は外れたな、毛利。
元親は、自分らの到着を苛々しながら待っているであろう元就に、ざまあみろと笑いながらも胸の内は複雑だった。目の前には既に待ち人の内二人がいる。先刻の電車で着いたようだ。
一人は伸び放題の髪をポニーテールにしている男。愛想の良い、好感の持てる笑みを浮かべているが、元親を『碇』だと知ると、ごめんよ俺って本当は大学生なんだ、と頭を掻いて言った。件の笑みをそのままに、である。
もう一人は元親と妙に親近感のある眼帯をしている男だが、目付きは頗る悪く、ともすれば喧嘩を売っているような顔付きだ。なまじ整っているから余計性質が悪い。しかも、一目で制服と知れるありていである。
お前らやる気あるのかと怒鳴り散らしたい何度目かの衝動を抑え込む。身分を偽ったのはお互い様だ。


「とりあえず本名とか、教え合おうぜ。俺はともかくお前らのハンドルネーム呼ぶの嫌なんだけどよ」
「俺は別に困らねぇよ。お前じゃねぇし」


取り付くしまのない言い方。このにべもない口調は元親にも覚えがある。本当に、二人きりで対話した相手の想像しうる気性そのもので、元親は密かに安心した。


「まあ良いや。俺前田慶次。実は一回ダブってんだ」
「嗚呼、老け顔の理由はそれなのか」
「誰が老けてるって?」
「俺は長曽我部元親。なげぇ名前だろ」
「じゃあちかちゃんって呼んで良い?」
「勘弁してくれ」


慶次はにこやかに元親へ笑う。気が合いそうだと元親は純粋に嬉しかった。


「で、アンタは?」
「…伊達政宗だ」


随分律儀である。憮然とした顔で言った彼に、元親は吹き出した。政宗は何がおかしいとがなって、きつい一発をくれる。何か運動をやっていたのだろう、なかなか鋭い蹴りに元親は笑いながら痛みに顔を歪ませる芸当を見せた。


「でさ、でさ、結局誰か『労人』の奴見つけれた?」
「いや、結局あれ以上ヒントもくれねぇしさ。なかなかねぇ」
「案外『信繁』が見つけるんじゃねぇ?一番掲示板見てたみたいだし」
「あいつだけは本当に家にずっといたんじゃね?」


政宗の何気無い言葉に、元親は今になって俄かに元就の言葉に狼狽た。掲示板に書かれた書き込みを見る限り『信繁』は今を生きるに珍しい実直(良く言えば素直、悪く言えば単純)な性格のようだ。元親を、ここにいる三人をどう思うだろう。
深慮に耽った元親は、いつもなら見逃すはずのない複雑な変化を見せた慶次に気付かなかった。


「ってか待ち合わせ時間っていつだっけ。そろそろ着いても良いんじゃない?」


慶次が自分の時計を覗き込むのへ元親も携帯電話で時間を確認する。十時を予定していたが、既に五分を回っている。時間に煩い元就が怒り狂ってしまうかもしれないと元親は少し焦った。


「佐助佐助、何をしておる。遅れてしまうではないか!」
「旦那が眠れないって寝坊したのが悪いだろ」
「やはり走れば良かったのだ!それならば遅れることなど…」
「うっそ、アンタ走って電車を追い越す気でいたの?」


ふいに、改札の方から、この混雑でも通る声がした。見ると改札で絡まるようにもたもたしている男が二人。
原色鮮やかな赤いパーカーに、茶色い襟足が長く伸びた短いウルフヘアの男の後に、更に赤っぽい髪を逆立てた男が叱るように何か言っている。切符が見当たらないのか、パーカーの男がズボンのポケットを探っているのへ後ろの男が呆れたような顔をしていた。次々に階段を降りてくる客が、迷惑そうに眉を寄せながらも騒がしいあの塊を避けて、別の改札へ切符や定期券を通している。嗚呼、元就が怒ったときはあれでは済まないなと元親はやたら遠い目で彼らを見た。


「どこにしまったかくらいちゃんと覚えてろよ!」
「お、お、覚えてる!ただその切符がどこかに消えて…」
「無機物は消えません!」


しまいには、後ろにいた男が直接パーカーのポケットを探したりと、その様子はまるで煩わされている母のようだ。微笑ましいものを感じていると、元親の視線の先に気付いた慶次が改札を見て、あ。と呟く。


「佐助と幸ちゃんだ」
「知り合いか?」
「うん、大学の友達とその親戚みたいな子」
「随分所帯染みてるな。男だろ?あいつ」
「料理も美味いんだ。何でも、高校のときに独り暮らししてたんだって」
「へぇー、そいつは是非ともお手並み拝見したいところだな」
「できると思うぜ?」


まさか軽々しく言った冗談に真顔でそう返ってくるとは思わなかった。慶次の真意を測るべく元親が振り返るのと、財布にいれた切符を見つけて二人が改札を通るのは同時だった。


「あ、あの、」
「あ?」


息を切らした少年が元親を見ている。


「『碇』殿でござるか?」
「え、じゃあお前」


良かった、違ったら恥ずかしかったでござると嬉しそうに息を吐く少年は、遅れてすみませぬと頭を下げた。


「某、あちらの掲示板で『信繁』と名乗っていまする。真田幸村と申す者でござる」


暑いのか、頬が蒸気して赤くなっているのが歳相応に見える。
そういえば彼を見つけたのは慶次だったと得意満面な慶次を見遣った元親の視界に、何故か僅かに憎悪を滲ませた政宗が入り、元親は首を傾げた。