2
〉…って企画を考えてんだけどさー、成功するかな。
〉さあな。プライベートにまで踏み込みたくない連中だっているだろ?
〉だって楽しそうじゃね?同じ区内とはいえ、そこそこ広いし、ここ。今まで知らんかった地元の穴場もわかるかもしれねぇじゃんよ。
〉俺だけじゃ何とも言えないな。一度提案してみろよ。そんであいつらの反応次第で企画の出没を決めれば良いんじゃねぇか?
〉なるー。じゃ、企画の成功を祈ってくれよな☆じゃなー
〉星付けんな気持ち悪い。俺もそろそろ落ちるわ。
*
相手の退室を告げる白々しい文字が画面の横一杯に広がる。しかし、政宗は宣った通り、素直に退室する気にもなれず、誰もいないパソコンの中だけに存在する対談部屋を動けずにいた。つい先刻まで楽しげに為されていた会話の端々が余計に虚しい。暫く感慨に耽ってから、政宗は退室のボタンを押した。
市外にある某高校の、パソコンが密集する一室である。
授業でも補習でもなしに、一般生徒が一人で勝手にこうした精密機器を扱うのは、勿論ご法度のはずだ。にも関わらず、監視教諭の誰にも知られずにこうして政宗一人がインターネットで趣味のカテゴリを閲覧できるのは、ひとえに、いつかに政宗が鍵を盗んで合鍵をこそりと作った過去があるからだろう。冴えない公立の高校では、今時防犯グッズの代名詞にすら昇りうる防犯カメラも、片手で及ぶ数しかない。個々の部屋に回すほどの財力は、国から回される予算にないのだ。政宗はそこに付け入る。
ページを戻って戻って、いつもの見慣れた掲示板に戻る。今までやっていたチャットに至るまでの下らない遣り取りが長々と伸びている。相手は、この掲示板を作った人間だった。ハンドルネームを確か、碇であったか?海が好きな人間と見た。
『碇』とチャットに至ったのは恵まれた偶然であった。昨日に書き込まれた彼(彼女?)の言葉にレスを書いたら、直ぐに彼が反応を返してきたのである。
掲示板には、臆面もなく、『**区引き篭り交流掲示板』とある。政宗の通う高校は市外だが、政宗の在住区はこの一角だ。けれど政宗は引き篭りではない。ないのだが。
「何だかな」
一人ごちる。
立派な学生という社会に甘んじた身分を、厭うわけではないのだ。しかし、この胸に込み上げる、どうも釈然としない中途半端な気持ちは堪らなく気持ちが悪かった。タンが喉に絡まったような、小骨が刺さったような。これが所謂青春か?とらしくなく首を傾げる(勿論、経験のひとつもない政宗一人でそんな答えが出ようはずもなかったけれど)。この気持ちが誰にも理解されずに燻ぶるのは、どうしようもなく孤独だった。
冬頃、帰宅路の電柱に、これのチラシが貼ってあったのへ興味を引かれた。こういう広告を電柱含む公共物に掲載するのは、確か某かの許可が必要だったのではないかと、無駄に小ずる賢い頭は黄色の紙を吟味する。それの書かれた内容を、なんて下らないんだと鼻で笑い、たまたま気が向いてそのページを開いてしまったのが政宗の落ち度だろうが。
政宗は、画面を直視しすぎて疲れた眼帯の下にある右の瞼を軽く掻いた。趣味の悪い真っ黒な眼帯は、飾りや歌舞伎で付けているわけではない。瞼に走る傷を、立派に隠してくれているのだ。しかし、誰も彼もが気性の荒い政宗を畏怖し、暴こうなぞしないので、意味を成しているかは甚だ疑問である。
*
傷は、二年前の夏に作った。政宗が生意気盛りな中学生の餓鬼だった頃の話だ。その頃に思いを馳せて、政宗は片方だけの、利く目を眇めて嘆息する。
当時剣道の面でなかなかに強豪校であった政宗の母校で、中でも政宗の剣技は一際突出していた。まだ両目共に健在で、片目で生活するその気苦労も何も知らぬ、それでいて、自分の頭はそう悪くないと信じきっていた、同年の子らとさしたる違いもない傲慢驕奢な子供であった。ことは、そんな薄らと可愛いげの漂う彼にとって、まさか最後になるとは思いも寄らない大会の最中だった。今となってはあまり頓着のない政宗だが、母校の中でも特に強かった剣道は、政宗に並々ならぬ自信と驕りを植え付けた。これの道で身を立てられる、と子供なりに懸命であって甘い見通しが、彼の中に確かにあったからである。後一歩でその自信が確固たるものへ変わるであろう、決勝でも政宗は驕りを捨て去ることはできなかった。
相手は、なんと今年から剣道部の発足した学校だった。やたらと強い二年生がいると聞き及んで、政宗ははやった。更に聞けば、何やらそいつの得意とするところは実は槍術らしく、今まで彼に負けた数々の学校を政宗は侮りきり、そしてまだ見ぬ相手をも侮っていた。
「そこもとが決勝に臨む相手でござるか?」
何とも古風な、中学生にしては逸脱した言い回しに、面手拭いの端を押し込んでいた政宗は、持ち前の目付きの悪さで睨んだ。既に手拭いを頭に巻き付け、小脇に面を抱えた少年が柔和でありながら、炯々と獣のような目をして政宗へ笑いかけていた。
「無法なまでに強いと聞きまする。良き試合をしましょうぞ」
爽やかに笑んで、彼は政宗に手を差し出した。握手のつもりらしい。しかし政宗は少年を視姦するだけである。気に食わないと思いながらも、失礼なまでにじろじろと少年を見る。
頭は手拭いで覆われ、どんな髪かはわからない。政宗より年下の彼は、それにしたって随分と顔立ちは幼い。真田、と黒い袴にはあったが、彼に似合うのは赤じゃないかと何故か漠然と思った。
「もし?」
「ん、いや、」
「具合が悪ければ主審に申されよ。万全でない相手とは、某、仕合えませぬ」
「何でもねぇっつってんだろ」
不機嫌も天頂に、政宗は荷物を持って踵を返した。手を差し出したまま肩透かしを食らった少年は、憮然とした面持ちで政宗の背を見ている。始めから、出された手を握り返そうなどとは夢にも思わなかった政宗である。腹の底に打算も計算も持ち合わせていない人間と話すなんて、久しくしていなかったのだ。
竹刀が弾き合う小気味良い音に、ふと政宗は我に帰った。主審と各々が、枠線の四隅に移動する。両校とも決勝の行方を、固唾を飲んで見守る、崇高な空気が政宗の首筋を刺激した。傍らに転がる竹刀を、変事ないか今一度確認する。白い針金を引いて、針金を固定する細い布を固く縛る。垢で黒ずんだ取っ手が手によく馴染んだ。相手は政宗を一度だけきつく睨んで、面を被った。政宗が握手を返さなかったことを根に持っているらしい。政宗も凶悪に笑んだ。
OK、叩きのめしてやる。
かくて試合は始まった。
相手は政宗が思ったよりも譲らなかった。槍術で鍛えられたのか、突き主体で面を取りにくることがとても少ない。距離を取るのも非常に上手く、足運びから予想される技に反した攻撃をする。ただし冷静さは然程にないのか、攻撃を受けたら直ぐに次の手で返してやろうと急く癖があるようだ。
突く。突かれる。
政宗はいい加減飽きてしまった。政宗の実力と張るに、申し分ない相手だが、簡単な陽動に動く頭の足りない奴だとわかったのだ。政宗に驕りと隙が生じた。
政宗は、何が起きたか一瞬わからなかった。ただ体が、足が地から放れ、右目は真っ白く、次いで赤くなった。審判が赤旗を上げ、無効と下した。当然だ。技の名を言いながらでないと、審判に採ってもらえない。政宗は片方で冷静に考えながら、激痛に叫んでいた。審判が何事かと近寄ると、相手に不戦敗を言い渡した。
強固な、人間の急所が集まる顔面を守るはずだった分厚い金具が、外からの負荷に負けて内側に曲がっている。一介の中学生ができる所業ではないと慄き、それを上回る相手への恨みがほとばしった。右目を押さえた手がぬめる。全て、政宗から流れ出た血である。相手は面を剥ぎ取り、青褪めた顔をして政宗を覗き込んだ。政宗が起こされ、指先に自分の竹刀が触れたときだった。
「糞野郎!」
半ば反射的に、政宗は竹刀で相手の顎を払った。鼻血と吐血を噴き出し、相手は、真田某は昏倒してしまった。これは取りも直さず、無防備の人間に竹刀を向けたことになる。結局両校どちらにも優勝杯が渡されることなく、次点であったどこぞの学校が思わぬ契機でそれを手にしたわけだが。
息巻いた政宗も病院へ連れて行かれ、そこで失明と以後の大会出場権を剥奪された旨を伝えられたが、政宗はそんなことなど歯牙にもかけなかった。やられたことを返しただけだし、右目がなくなってもまた剣道を続けられると思ってもいなかったのである。
相手がどうなったかは知る由もなければ、政宗がどうなったかも知られていないに違いない。自分の目が潰され、しかし相手はその内治ってしまうような傷で済んだことがひとつ、悔しかった。政宗が少年院に送られない事実だけが、相手の生存を示す。
政宗は向後大きな転機を向かえることになる。自分が唯一家元で信頼を置く人物が、珍しく安堵を昇らせた顔と、生母が病室で呟いた、そのまま死んでしまえば良かったのに、という言葉に、政宗は予てより考えていた、家を出る決心をしたのだ。
それから二年経った今、真田という名と子供のような見目と、彼の吐いた血とぎらつく攻撃的な目が未だに政宗の脳裏をちらついた。