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あまり栄えていないと見受ける己の住む街をふと一望して、佐助はため息を吐いた。割かし都市近郊に位置するこの街は、けれど思いの外、あまり栄えていないような気がしないでもない。人混みが好きではない佐助は、しかし勝手ながらも就職口の厳しさに対する不満を込め、どこか霞んで見える街にまたため息を吐いた。そうして買い物袋を自転車の前カゴに詰め込み、ペダルを漕ぐ足を急がせる。
「ただいま」
部屋は暗いままだった。返事もない。代わりとばかりに居間から機械的な音が飛んでくる。ピコピコバシュー。それこそ、家人がいる何よりの証拠なのだ。何と言っても佐助を除いて他一名様の同居人は、家にいれば一日中テレビの前に座っているのだ。憮然としたまま電気付けると、それがやはりテレビの前よりこちらを向いて笑った。
見ればかなり古いゲームだが、佐助は同居人が、このセーブポイントまで到達するにやたら難しいゲーム以外をしているところを見たことがない。他のものを欲しがる気配もなく、佐助の知る限り飽き易い同居人が続けてできる数少ないものの内のひとつである。
「おかえり佐助!」
あっという間にテレビ画面にゲームオーバーの字が浮き上がるも、同居人こと真田幸村の興味は佐助の持っている買い物袋の中身に移っている。そう、この男は目移りが激しいわ飽きは早いわと善くも悪くも好奇心は子供より多い。下手な子供より子供らしいのではないかと危惧する佐助に本日の夕飯を尋ねる幸村は、何を隠そう、今年に入学したばかりの新米ペーペーな高校生である。
春麗らかな心地好いこの気候の中で、何故か突然学校に行きたがらなくなった幸村は、故意に家から出そうとすると家の物を引っくり返すまで暴れて嫌がる、とんでも様なのだ。かと言って外に出ることを厭うわけでもないが、佐助に言わせれば立派な引き籠り兼登校拒否問題児だ。理由を聞いても笑って下手な誤魔化しを繰り返すばかりで何も言わない。あまりに無理な誤魔化しなので、もう口煩く言う気も失せた。
さて、これまで佐助の立場を明快にするに当たり、幸村を同居人だとか表現したり保護者のように甲斐甲斐しく世話を焼いている素振りもあるが、その実佐助の方こそが居候である。この家の所有権は幸村の親が後見人に委譲している。当の幸村が敬愛してやまない後見人は長い仕事に出かける間際、佐助へ幸村の世話を頼んでいる。紆余曲折を経て、今では幸村と二人、妙に余所余所しい家でぎくしゃくしながら暮らしているという経緯があるわけなのだ。
「今日はロールキャベツだよ」
「…人参は入れるのか?」
「当然」
一瞬不満そうな顔をした幸村だが、多々ある己の好き嫌いが佐助の強制力ある食生活により改善されている(そして反発した日の報復は恐ろしい)のをよくよく知って口を噤んだ。食べられないわけではないし。
「手伝って」
「うむ」
未だ画面でプレーヤーの死亡を冷たく告げる、定番決まってのおどろおどろしい文字には見向きもせずに幸村は、コードをまとめて引っこ抜く。そんな抜き方をすれば使い物にならなくなるのではと佐助は僅かに眉を潜めて見たが、困るのは持ち主の幸村だけである。たまに付き合わされる身ではあるが、飽くまで暇なときの話だ。身分を忘れてのうのうとしている幸村とは違い、こちとら小論やら何やらを抱え込む学生なのだ。バイトと併せてはとにかく暇がある方が稀有だ。慣習で夕飯はきちんと一緒するのだけれど。
「旦那、人参抜いちゃ駄目」
「…ちぇっ」
このように近頃の物欲にまみれた世には比較的珍しい、欲目のない幸村は、できあがった花形人参(佐助作)入りロールキャベツを目一杯口に含みながら、こう宣った。
「うちもインターネットを繋ぎたい!」
ちなみに佐助は、パソコンに対して限りない苦手意識を持っている。
*
幸村はやたら手強かった。佐助が如何にあの手この手と懐柔作を繰り出そうが、その全てを悉くはねつけ、拒み、頑として受け付けなかった(一ヶ月に一週間、三食好きなものを作ってやるという身を切るような譲歩は、幸村にとっても断るのは辛かったに違いない。あんな苦悶した幸村の表情を、佐助はあのとき以外についぞお目にかかったことはないのだ)。
遂に佐助は折れた。いや、曲がったくらいの妥協をした。条件を付加したのだ。
「送り主のわからないメールは絶対触らずすぐに俺に言うこと。それとやるのは二時間未満、ね」
「委細承知した」
幸村は得たり、と笑みを浮かべた。佐助にしてみれば、件の飽き性でインターネットも飽きてくれれば申し分ないのだけれど、ゲーム感覚ではまってしまえばもう後の祭だ。
「ていうかさ、インターネットやりたいって言ったからには何か調べたいんだよね?何調べたいの?」
「街中で面白いサイトを見つけてな」
「珍しいね、今日は外出したんだ」
胸中では、穏やかでない佐助である。
電話番号を載せた精力剤の宣伝がごくたまに電柱に貼ってあるのを見掛けるが、幸村が発見したサイトをその類だと思いたくなかった。何が嫌だって、そうとは知らずに見てしまった幸村が、破廉恥である!と叫んで昏倒し兼ねないのが嫌なのだ。それでなくとも今時初な幸村のいなし方に、佐助はまだ慣れていない。
持っていないのに携帯電話を使えと無情なことが言えるはずもなく、せっかく空いた休日に電化製品の陳列棚を、よく知りもせず物色するのも馬鹿馬鹿しいが仕方ない。約束は約束だ。
「条件破ったら、一週間触るの禁止」
「応!」
解約すると言わないのが佐助の幸村に対する甘さ所以か。
どこと契約するのが良いか、そちらの理に明るい知人に連絡すべく、佐助は携帯のアドレス帳を開いたのだった。
数週間後、インターネットが繋がった状態で家の一角に後見人のお下がりのノートパソコンが鎮座しているのを、佐助は複雑な気分で眺めていた。幸村にとっては中学校の授業でかじって以来で、まるきり初めてと言って良い。爛々とした眸で画面を捉え、ぷるぷる震える指で起動ボタンを押す。
「ふぉおお!佐助!動いたぞ!?」
「そりゃあ動かなきゃ使えないからねぇ」
そもそもそんな原始的なところからでないとお話にならないのか、この人。と佐助は呆れるばかりだ(ただの興奮だと佐助は一縷の希望を思う)。
「って、そのボタンは触っちゃ駄目!もうちょっと待てないの!?」
「しかし佐助、さっきからうぃんうぃん言うだけでちっとも進まんじゃないか」
「準備してるんでしょ」
「早くっ!」
「俺に言わないで!」
幸村は早くも飽き始め、椅子に座ってくるくる回って遊んでいる。付き合ってないと何をしでかすかわからない幸村に付き添う佐助の方が、気が重いのは何故だろう。いい気なものだと佐助は幸村を睨めつけた。
「あ、画面が変わった」
「パスワードは確か大将に聞いてあるから…*****だよ。忘れないでね」
「心得た!」
にこりと幸村は笑った。幸陽の如くその笑みは佐助の胸を少しだけぽかぽかさせた。
佐助と幸村は、幸村の父親と佐助の養父の繋がりの延長として関係を持っていた。小さい頃から互いの味噌糞すら知っているのだから幼馴染みと言っても差し支えないが、しかし兄弟同然というには些か辟易するものがある。佐助は幸村の中学入学当初は知らないし、また、幸村も佐助の住み変わった町を知る由もない。その間凡そ三年間、記憶を塗り替えるには充分過ぎる空白期間であろう。事実大学がこちらであることを世話になった件の後見人へ挨拶に伺った折りに見た幸村は、制服の中で泳いでいる小さい体ではなかった。佐助の背までとはいかないし付くところにしか付いていないのでやけに細身にあったが、しかし少なくとも青臭さは抜けて精悍な顔していた。開口一番に「あ、回覧板でござるか?」と言った当時から、おつむは足りているとは言わないが。
「ところでさ、どんなサイトが見たかったの」
「ん」
幸村が差し出したのは、四隅が千切れた紙だった。どうやら電柱に貼ってあったのを勝手に拝借したらしく、雨風に晒され凹凸の凄まじい紙には、インクの薄れた見覚えのある字面が。
「この地区に在住の人間に限定?」
「嗚呼、面白いだろう」
「面白いって、あのねぇ…」
だから何だというのだ。
「地区を限定したってことは、サイトの管理者もこの近辺の住民ってことだろう。擦れ違ったかもしれぬ御仁だぞ?」
「へぇ、はぁ、ふぅん。あ、これ先が読めないじゃん」
「聞いてないな」
もう知らぬとデータベースを検索する幸村を余所に、佐助は読めない字を解読にかかっていた。
「ひ、ひ、ひき、ひ、…うーん、読めないなぁ」
「あった!」
「ん?」
画面をふと見る。でかでかとした文字でこうある。
『**区引き籠り交流掲示板』
どうだ面白そうだろと得意満面な笑顔の幸村に、自覚があるんだとか、類は友を呼ぶとか、色々浮かんだ言葉は形にならないままに、とりあえず佐助はぐらりと目眩を覚えた。