ん、と忍びが尊大な態度で手を出した。


「…何だ」
「竜の旦那から軟膏預かってんでしょ。ちょーだい」
「何でてめぇを通さないとなんねぇ」
「やだなー、右目の旦那」


ここが、本来は敵陣の真っ只中だからだよ。
鋭く切れあがった、いつもは人を舐めくさった目が如実に語る。あまり好意は持っていなかったが、なるほど、身分も語れない忍びの癖に、一丁前に主を守ろうとしているのか。
小十郎は今まさに置かれた立場を忘れて、まじまじと供回りに扮している赤髪の忍びを見た。




*




火傷した指の手当てをしにきたと言ったら、幸村は不思議そうな顔をしたのちに僅かに眉を寄せた。


「気遣い無用と申したのに、伊達殿は…」
「甘んじてやんな。火傷を理由に静観和議を破棄されたらたまらねぇのかもしれねぇ」
「武田はそのような小さきことで戦をけしかけはしませぬ」


心外な、と憮然とした顔をする幸村に小十郎は懐から軟膏と布を取り出す。背後の襖から、供回りが一人、入ってくる。穏やかではないその気配に、小十郎は苦笑をやった。
見張るつもりなのだろうか、この忍びは。
他の少ない供回りよりも明らかに歩き方に気を遣っている。そろりそろりと、小十郎の背中をとる。幸村がちらりとそちらを向いた。


「では、折角なのでお頼み申す」


差し出された指を見て、小十郎は眉を潜めた。水が浸透してふやけた皮に、幾筋も重なる、歯型。皮は破れてこそいないが、だいぶ傷ついている。


「噛んだのか」
「え、いや、少し気になったもので…」


気がついたら噛んでいたようでござると無垢に言う幸村に、小十郎は背後の供回りを睨んだ。
そこらの雑兵や、まして小姓などはその眼光の強さに慄きもするが、得てしてその供回りは肩を竦めるだけだった。まるで自分のせいではない、と代弁するかのように。


「…治りが遅くなるかもしれねぇぞ」
「されど某が槍を握るを止める理由には足りませんな」


つい、小十郎は幸村の目を見る。無意識なのかどうなのか、僅少なりともその目は鋭く歪んでいる。猛禽の目だ。主と同じ。
小十郎は口角を上げ、指に視線を戻す。
武将であると同じく一国一城の、政務に追われて刀傷ばかりでなく筆豆を作る主とは違い、その手は純粋な戦傷に埋め尽くされている。最早どんな経緯で作られたかもわからない傷や、それにも重なる傷。篭手に守られているとはいえ、一体どれほど戦で死線を練り歩いたか。恐らく主と同じくらいだなと、小十郎はふと懐かしげに彼の幼少を思い出した。
小十郎が右目を抉るまで、己の容姿に囚われ、塞ぎ込んでいた哀れな男。その稀にも見ない壮絶さを知っているからこそ、小十郎は今まで何にもしがらみを受けず、政宗に尽くしたのだろう。
幸村は自分の指を興味も無さげに一瞥し、襖の向こうを見た。庭がある、襖の向こう。何か彼の好奇心をくすぐるものがあったのだろうか。


「…ひとつ聞くが、この薬に毒でも仕込まれていたら、お前はどうする」
「……某を、暗に手討ちなさるおつもりか」
「まさか。こちらも忍びを黙認したんだ、それくらいの問答くらいは良いだろう」
「そうですな…」


さして拘りもせずに幸村は、軟膏を塗った指をまた口に含もうとして、供回りにそれを差し止められる。


「とりあえず佐助に某の首を斬らせ、甲斐へ持って行かせまする」


後ろで、仕方無いねぇ、旦那は。と供回りにしてはやけに着膨れた服を着た忍びが言った。その服の下に数知れない凶器がしがみついているのだろう。
どうってこともないと、済ました顔で軟膏を塗った指をしげしげ眺める幸村に、小十郎は違和感を覚えた。


「武田の猛将と名高いお前が、自分の価値も知らないとは思わねぇけどな」
「某に価値などござらぬ」


どうも気になるのか、幸村は水脹れした皮を引っ張る。他者に目も向けないそのぞんざいな態度に、戦中におけるある種の特異的な礼儀正しさを持った幸村とは思えず、些か小十郎は不快感を露にした。


「所詮国は人で成り立った曖昧なもの。某は、お館様の役に立って死ねれば本望。お館様の治める天下を見られれば重畳。某がいつかに死のうと、代わりはいくらでもいるでしょう」


たった一人の欠損で信玄の統治する国は揺るがぬと、信じて疑わない確固たる信念。
盲従だと、そんな言葉が浮かんだ。しかし自分にもその気があることを否定してまで、幸村の言葉を変えることは小十郎にはできない。自分の理念や信念に適った人間に従属する喜びを、この場にいる誰もが知っている。忍びはその点を億尾にも出さぬけれど。


「伊達殿も、同じではござりませぬか」


小十郎の信じてきたものを、一言でぶち壊す悪行を遣って退けた幸村は、同時に弄っていた指の皮を引き裂き、これまた小十郎の手当てを水泡に還した。







むじゃきむじゃきむじゃき。