なんだか珍しいもんを見た。
目の前の人間を見て、こんなことを考えている場合ではないのに(しかもこの人は自分の主だ。給料を出してくれる人)、だからやっぱり冷静ではないのだ。
だって、この人の涙なんて。





言ってしまえば心象を悪くするということはわかりきっているから本人には言わないが、彼を追いかけているときは兎をなぶり殺しにする狼のような気さえしていた。おかしなことだ。彼は、単なる草食動物ではない。狩るか狩られるかの瀬戸際を楽しむ、一種の中毒者なのに。
伸びた後ろの髪がひゅんひゅん翻る様を眺めつつ、何だか面白そうだとひそやかに笑ったのもそうなのだ。
彼を手玉に取っているような気分。
遊んでいる気分。
幼心に還る、





顔を必死に隠してた。
初めは発疹でも出たのかと心配したが、頑なに顔を覆って無理やり見ようとする佐助の手を懸命に振り切ろうとしている幸村を見るうちに、にんまり笑みが浮かんだ。曰く、からかってやろう、と。
両腕を掴んであと少しで顔が見えるというところで、少し不機嫌になった幸村は佐助の手を思いっきり叩き落し、部屋から逃げ出した。まさしく脱兎の如く。
けれど、忍たる佐助の脚力は、伝令や密書など性急性を必要とする仕事も請け負う故に、幸村のそれよりも遥かに優れていた。
童のように御簾を蹴破って裸足で外に飛び出した幸村を、林に突っ込む手前で捕まえた。


「つーかまーえたっ!」
「うわ、」


ぽつ、と腕に水が降ってきた。けれど、雨の兆しは遠くにすら見えない。今のところ、そよぐ微風も湿ってはいない。
気のせいだと納得して、さて今度は何だ痘痕だろうかと佐助は幸村の顔を覗き込んで、そして固まった。


「…エート」


幸村の顔はぐちゃぐちゃしていた。佐助に見られたという混乱もあるのだろう。けれど、それ以前からであろう、幸村の顔は、文字どおり涙でぐちゃぐちゃになっていた。


「…立ち去った方がいい?なぐさめた方がいい?」


我ながらなんと気の利かない言い回しだろう。ぐすっと鼻をすすった幸村が、「おまえさいあくだ」 と罵るわけもわかる。うん、俺さいあく。
なんだか珍しいものを見た。
そう考えている場合ではないのに、佐助はぼんやりしていた。というよりも、頭が真っ白だった。
え、何で泣いてんの 逃げていい?
佐助は焦っていた。主の泣き顔なんて滅多にお目にかかれない。むしろてっきりこの人は泣き方を忘れたんじゃないかと思っていたのだ。
いつも何かにつけ、気合がどうのお館様がなんだのかしましく、時々ちょっと聡明なだけの明るいという字を背負った人が、楚々として涙を流す様など想像ができない。実際その想像だにできなかった現象が今目の前で起こっているのだけれども、その実感すらどうしたってわかなかった。
しかしどうしたらいいのだろう。
立ち去るタイミングを完璧に逸してしまった。少なくとも幸村が恨めしげにこちらを見ている限り、静かに姿を消すというのはどうも気が利いているとは言いがたい。
慰めるにしたって、幸村が一体どうして泣いているのかわからない。
大丈夫だよ―何が大丈夫だ。
心配しないで―だから何がだ。
慰めの言葉ひとつも出てこない自分が悲しい。
こんなんで忍としてやっていけるのかな、俺。
中途半端に肩を抱かれたまま、目も逸らさずにまだぐずぐずやっている幸村が文句を目線だけで訴えてくる。


「だって旦那が隠すんだもん」


よりにもよって、口からついて出た言葉は言い訳に近かった。
幸村の拳がぐっと握られたのを見て、佐助は今日一番の危機感ある 「俺さいあく!」 を心で唱えることとなった。




***


もずくさん宅のメモにあった主従がかわいすぎるんでうっかり押し付けなんて暴挙に出た結果。
ごめんなさい。でも大好きです!
もずくさんに(勝手に)捧げます。
(080522)