手葬
心葬
蝉葬
鬼葬
忌葬
狗葬
仮葬
湖葬
呼葬
鎖葬
手葬
希望もへったくれもない、命を奪うだけの手だった。ごつごつして、節くれ立って、柔かさなんてかなぐり捨てたような手である。そんな手であるわけだから、大小様々な傷も彫り込まれているのは当然と言えば当然だった。裂傷から始まり、火矢の熱気に焼かれた痕や、打撲傷の名残、今日新たにできた傷もある。それでも、骨折や取り返しのつかない傷を負わなかったのは、純粋にこの手が強かったからなのだろう。
佐助は茫然と考えた。
掴んだ手の温もりは、疾うに消えてしまったというのに、佐助は握り続けている。手甲の固い感触越しだろうと、よくよく知っている子供のように暖かな温もりが佐助の指にしがみついているかのようで。
戦死した彼の顔はやけに穏やかだった。腐り、鈍り続ける末路を何より危惧していた彼は、血生臭い地面の上で死ねたことが、筆舌に尽しがたいほど嬉しかったに違いない。物騒で簡単な、けれど彼にとってかけがえのない願い。
置いて逝かれた寂しさはなかった。ただ、願いを叶えられたが故の安らかな顔が、佐助を安心させるのみだった。
心葬
自分が泣くときは、この人が死ぬときだと思う。そして、そのあとで自分もあとを追うのだ。
そういえば、最後に泣いたのは、初めてあの人に出会い、ふくよかな小さい掌で腕を掴まれ、今から某の命はお前に預けたぞ、と何の躊躇もなく笑って言ってくれたときではないか。
嗚呼、命を張って任務を行う忍の冥利に尽きる一言ではないか。
子供のわりにはよくよく人の機微を見極めることが上手い人だった。それの対象は忍もその限りではない。ついた傷の一番古いのを探し、撫でながら、これが佐助を生かしたのだと、まるで有り難むようにして笑ったのだ。胸に込み上げる暖かいものが、顔に広がった。あの人に仕えてから、初めての笑顔だった。忍でありながら人に還ったような思いがした。
必要のある慟哭は、あの人に出会って人に還ったときと、あの人が死んで、自分の中にある人が死ぬときだけで良い。心が死ぬときだけで良いでしょう。
そう思う自分が一体猿飛佐助の心か理性か、もう区別はつかないけれど。
蝉葬
ぽとり。何かが足元を転がった。幸村は下を見た。草鞋を履いた自分の足の横に、足を丸めて仰向けに腹を見せて死んでいる蝉がいた。
季節は、いくら残暑が厳しくても秋を迎え始めている。薄暑の頃とよく似た中途半端な熱気が、地面から燻ぶる煙のように立ち上っている。木から落ちたのだろう、まだ近くの小立からは耳障りなしゃわしゃわという音が聞こえる。降り注ぐ油蝉の声の中で、つくつくぼうしが鳴いている。
どうしようもない夏が退き、涼しい秋がやってくる。戦場に折り重なる、数々数多の死体から揺らめく腐臭から、目を背けずに済むのだ。
安堵した幸村だったが、風はまだまだ生温かった。
鬼葬
がつ、
石が音を立てて崩れた。石の隙間から砂塵が転がり、僅かに幸村の手をひっかく。幸村は崩れた石の小山を如何にもせず、呆っと目の前を流るる川を見た。
さらさらと、さやさやと、細かく柔らかな音が耳を打つ。さして轟々と流れてはおらず、けれど川幅は広く、深く、対岸は遠く霞み、目に留めることはない。まるで川の水は落ちた者をじわじわ溺死させるが如く、実、緩やかに流動している。
がつ、
石が崩れる。ぱらぱらと砂塵は降る。
幾許か目の、川渡しがやってきた。川渡しは言った。
「親の後に死んで、咎もないというのに、あなた様は本当に、物好きでございまするなぁ」
川渡しの顔は見えない。目と鼻の先にいて、尚も幸村の前には霧が夢想の中のように横たわっている。一縷として川渡しの顔は見えないが、不思議と川の流れははっきり見える。
幸村は笑った。
「渡し銭を一枚、人に盗られて渡るに渡れぬのでござる」
幸村は首に吊り下げた連銭を掲げた。寄糸にかかる銭は五枚。
「へえ、難儀でありまするなぁ。それで、あなた様はそんな、賽の河原の児子のような真似事を…誰がそのような真似を?」
幸村は笑った。ただ、笑った。川渡しは些か失望したような声音で、
「わかり申した。勝手に折り合いつけるがよろしい」
ぎぃ、ぎぃ、櫂を軋ませながら、何人かを乗せ向こうへ行ってしまった。幸村は崩れた石を、直し始めた。けれど、いくら直しても所詮河原の石全てを積み上げることはできない。幸村はそれを知っていて、まだ石を掴む。飽きずに石を積む。
「早く、早くこちらへ来て下され。懐かしい面々より、賽の鬼より、恐ろしい竜のお方。某の願いを砕く権利があなた有ろうと、某の舟渡の銭までお盗りなさる権利はない。早くこちらへ来て下され。某の一文を、返しに」
呪咀は血塗れた俗世に届いたであろうか。
忌葬
黄色の珍しい着物が、どんどん血に濡れていく。毛皮のごわごわした先が、血で硬くなっていきそうだ。幸村は呆然とそれらに見入った。
「…なんで。なんで、慶次殿がおられるのだ」
「は、ははっ、武田に汲みするわけじゃないんだけどさ」
「そんなことは聞いてはおらぬ!貴殿、何故この戦に赴いた!?是度の合戦は、貴殿に関係のなきものではないか!」
飽くまで武田と小県の競り合い。名のある誰かがどちらともなく欠けることのない、規模の小さなものだというのに、何故この無関係な風来坊がよりによって。
臓腑まで切り裂かれた腹は、溢れ出る鮮血で傷すら見えない。しかし傷など見ずとも取り返しのつかない傷だと、戦場で培われてきた勘が告げる。助からない。
「やっぱ傷っていてぇな」
「何を今更、」
「介錯頼むわ」
頬が痙攣して引き攣る。どれだけ大それたことを言ったのか、わかっているのか。この男。
「慶次殿は酷い人でござる」
「うん、ごめん」
「酷い」
「ごめんって」
笑って彼は幸村に促す。その二槍で早く貫け。
「幸村」
「何でござる」
「恋しろよ」
「……っ、また、いつもの戯言を」
槍を振るった幸村の視界は、涙でぐちゃぐちゃだった。けれど視界いっぱいに広がった赤い色と、槍先から感じた彼の最後の弱々しい鼓動が、幸村が引頭を渡したことをしかと教えていた。
いつもと同じ戯言を吐いて逝った彼を何より憎く感じ、幸村は胸に突き立てた槍にすがり、微かに嗚咽を漏らした。
狗葬
生きている内に触ることはついぞ叶わなかった色素の薄い髪に、戦々恐々触ってみる。潮風に苛まれ、傷みに傷んだ髪は、到底手触りが良いとは言えなかった。べたついて微かに指先に絡み付く不快さに毛利は顔をしかめた。
「興も過ぎたものよ」
見目が良かったから故に、触り心地を知りたかっただなんて。苦い自嘲が広がる。
横たわる体。血溜まりとはよく言った、それに沈んだ体。既に後頭部の一部はひたひたとつかっている。薄く開いた口唇と瞼。早くも濁り始めた眼球。あんなに(自らに存在する僅少の)好奇心を刺激した顔の左を覆う眼帯も、その下を暴こうという気すら起こらなかった。
それほど交流があったわけではない。彼がいくら海賊を名乗ろうと、寧ろ海を隔てた向こうは毛利にとって疎遠なものだった。戦のない世なら、そんな疎かになることもなかっただろうかと考えて、首を振った。必要のない社交を嫌う毛利には、どのみち土台無理な話である。
漸く、長曾我部元親を殺したのだと実感して、震えた手に毛利は愕然とした。
仮葬
『虎の牙は竜が喰らった。』
届いた文に、佐助は下唇を噛み締めた。真田幸村の死体が見付かった。もっとも、首から上のない死体だが。
首級を武勲の誉れと掲げるこの時世、首のない死体など戦をすればごろごろ出てくる。しかし佐助は信じなかった。
部下が届けた死体は確かに幸村の着物を召し、ご丁寧に六連銭までかかっていた。体に残る傷まで酷似していて、佐助でさえ本物の、幸村の死体だと思いもした。死んでも帰ってきてくれたと喜びさえしたのだ。しかし佐助は認めなかった。
届いた文に書かれた内容、名こそないが見た覚えのある字面。佐助はいきった。
「そんなに旦那が欲しいか、独眼竜…!」
戦の中で絶えず一番駆けをしたがる幸村の性を理解した上で、佐助はいつも幸村を追い掛けながら背中を守っていた。しかし今回本当にはぐれてしまったのは佐助の最初で、最後になるかもしれない落ち度だった。
確固たる証拠はなかったが、妙に確信めいたものを佐助は握っていた。
「大将に、報告を」
幸村の死体を運んできた部下が頷いて消える。佐助は横たわる首のない体を無感慨に見つめた。
仮とはいえ、誰のかもわからない死体を幸村だと偽り、幸村の死体として葬式をあげてやるなど考えただけでも反吐が出る。
湖葬
腹から空気が抜ける音がくぐもって可愛らしく響いた。深い深い深淵、最奥の暗さか、それとも見えないだけか、とにかく沈んでいく体が徐々に見えなくなってゆく。
とある場所。氷がまだ張っていない湖。伊達政宗はそこに頼りない船を浮かべて水面をじっと見つめていた。
沈んでいく体。見えなくなっていく体。小さい体。一人の少女が死んだ。最後まで戦のない世を望んで、小さな命は消えた。
「おら、蒼いお侍さんの作る天下が見てぇだ」
ことあるごとに、彼女はこう言った。伊達は笑ったが、彼女の忌み嫌う戦が好きな人種と自分が何ひとつ変わらないのだと、敢えて言わなかった。強い人間と会うと情勢も考えず武者震いが起き、血湧き肉踊る、もののふ。力の拮抗が続きいつまでも決着をつけられないことに憤悶する自分に、赤の彼を笑う資格などないと、水面に写る伊達はふと苦笑いを溢した。
「良いさ。見せてやるよ、俺の作る天下って奴を」
せめてそこで、良い夢が見られるように。
呼葬
佐助がしくじったと聞き及んだ。あいつにしては珍しいと思い、いつ帰ってくるのだと軽い気持ちで、部屋の敷居の前で姿勢を改めている草の者に聞いた。
「長は帰ってこられません」
「今というわけではない。いつか帰ってくるのだろう?それをいつかと尋ねておるのだ」
「何度も申し上げます通り、長は帰ってこられません。敵方に捕まり、拷問を受ける前に自決なされたのです」
自決した。死んだ。猿飛佐助が死んだ。自分で。
「…情報を洩らすまいと、か…?」
「恐らく」
「何故だ!佐助は優秀な忍であろう?軽口も言っておったが実力もあったろう!さればこそ、お主らもあれを長に立てたのではないのか!」
「御意に。しかし、長が自決なさった理由は最早長にしかわかりませぬ」
それもそうだ。すとんと、頭に昇った血が降りた。血の気が引き過ぎて、手が震える。
「…そう、か…」
「幸村様、」
「良い。もう呼んでもあいつは姿を見せぬということだろう」
「は…」
「遺体は処分したのか?」
「勝手ながら」
「良い。今見ると泣いてしまいそうだ」
いや、もう泣くかもしれない。喉に詰まる重たい唾液、下の方が不明瞭な視界、震える声と体。思わず片手を目に沿えたが、不思議と涙は出てこなかった。
鎖葬
片手でひょいと担いだ碇を海に投げ込む。重たい音がして水飛沫をあげながら、碇は海に潜った。独特な癖のある潮風が気持ち良い。
「元親殿、こんな浅瀬で碇を投げるのは何故でござるか?」
「ん?まあ聞いてろよ」
大して引きずられもしなかった鎖を、幸村は期待外れといったように見つめた。
「もしこの碇がお前で海があの世だとしたらよ、」
「それは、某を筵巻きにして海に投げ込むぞという暗示でござるか」
「違ぇよ!早合点すんな!」
剣呑な顔付きになった幸村に元親はため息を吐いた。
「俺はこの鎖になりてぇのよ。いつでも碇を引き上げれるような。あっち逝ってる途中に俺んこと思い出して止まってくれたら良いと思ってよぉ。くせぇな、俺」
「…」
実にその通りだ。その上女々しく情けない。幸村は元親を仰ぎ見て、それから碇を見た。碇の全貌が見えるほどの浅瀬に投げては、説得力の欠片もない。しかし戦の絶えない甲斐に身を置く幸村を思って言ったのだと、知っているから何も触れない。鎖はいつしか腐ることを幸村が知っていることも。彼の気遣いを無下にすることは、幸村にはできなかった。