理葬    歌葬    詩葬    白葬    黒葬
嘘葬    無葬    生葬    還葬    終葬



埋葬

屈託なきその顔を、どうも自分は忘れてしまったらしい。一部一部はしっかり覚えているが、ならば何を忘れたのかと問われるとその顔の全貌が思い出せない。
自分は一体如何してしまったのだ。
思い出そうと目を瞑る。
日に透かすと明るい茶色に見える、一部だけ馬の尻尾のようにだらりと下がった長い髪。決して女々しくないその双眸。甘やかな、強き意志を込めた目(そうだ自分が特に好きなのはその双眸だった)。
自分より少し低い位置にある肩をからかってやれば、面白いほど反応を返してくる、負けん気の強い、けれど融通が利かないでも(頑固だけれど)気性が荒いわけでもない、付き合ってみて初めて触れる彼の本質にはおどかされっぱなしである。実は甘味好きだったとか。
嗚呼そういえばそうだ。奴は男だ。それはそうだな。戦場で刃を合わせたこともあるのだから。
鍛えているのであろう、筋肉の浮き上がった腹を晒し、赤で揃えた全身がやけに印象に強かった。一途に健気に一人だけを慮るそれはまさに忠犬の鏡だ。
嗚呼、何もかも、一寸違えることなくその詳細を思い出すことができるのに、何故全体が思い出せないのだろうか。
不意に、視界が揺れた。誰かがここを訪れたのだ。
誰だ、こんなところに。こんな真っ暗で狭いところに、何の用だというのだ。
光が差し込み刹那後、思い出そうとしていた顔が自分を見下ろした。それは瞠目してから確認するように自分の頬に触れ、花が綻ぶように笑った。


「こんなところにおいでであったか。政宗殿」


奴は大事そうに自分を、伊達政宗の首を抱え上げて胸に抱いた。


「探しましたぞ政宗殿。よくもお館様の首を撥ねて下さったな」


憎しみと慈愛を込めた瞳で、奴は自分を掻き抱く。暖かい。奴の胸が、心臓辺りが脈打っている。生きている。


「赦しませぬぞ。某が貴様の首を討つはずだったのに、人知れず、こんな山奥で果ておって」


笑う。笑う。筋肉が動くのなら、笑っていた。嗚呼愚かなり。
死んで硝子玉のようになった自分の目に、憎悪と愛着が内混ぜになった奴の顔が映った。
辛かろう、苦しかろう。ならばここで果てよ。全て無くしたというのなら、ここで土に還れ。それがお前を、真田幸村を手に入れることなく、その志し半ばで死んでいった自分の、伊達政宗の望むところなのだから。
嗚呼表情筋が生きていたら嗤ってやるのに。















歌葬

夕な夕な月を見上げ酒を仰いだ。徳利の中身の一滴一滴を猪口に移し、舐めるように舌先でまろばせる。酒気の仄かな苦味が僅かに頭を揺るがせた。
いつも思考が霧がかってきた頃合いに、まるで見計らったように、忍が徳利と猪口を取り上げる。


「今日はおしまぁい。また明日な」
「…佐助」
「宵っぱり。お館様を超える酒豪になっちゃうんじゃない?」
「酒に溺れる気はない」
「その飲みっぷり、鏡で見れば?」


苦々しい顔付きで佐助を見る。
己の酒への入り浸り振りは、鏡で見るまでもなく乱暴である。これで酒に溺れる気はないなどと、よくも言えたものだ。幸村は自分自身で呆れた。


「酒なんて、そんな旨いもんかなぁ」


それには答え兼ねる。幸村も、果たして本当にのめり込むほど酒が旨いのかは、わからないのだ。そもそも浴びるように酒を飲んでも、味わう目的で飲んでいるわけではない。
そういえば、酒のたしなみを教えてくれたのは彼だった。


「アンタliquor駄目なのか?」
「む…」
「あのなぁ、雅楽(うた)と酒はたしなみだぜ?」
「し、しかし。某、直ぐに酔ってしまう故、佐助から厳しく言い遣っておりまする…」


彼は何とも言えない顔をした。ため息を吐いて幸村の頭を掬い、そして、その手に比較的小さな猪口を持たせる。


「要は慣れだ。少しずつ慣らしていけば良いさ」
「しかし、無意識に伊達殿に粗相でもしてしまったら」
「アンタ、俺が器の小さい人間に見えるのか?」


幸村は首を振った。そんな人間であれば幸村なんぞを城に招いたりしない。
幸村は並々と酒の注がれた猪口に少し口をつけた。


「…うぇ」
「甘くはねぇぞ、酒なんてのはよ」
「うぅ、不味いでござる」
「慣れちまえばそう苦にはならねぇさ」


酒が苦いということを、ならば先に言って欲しかった。
そうだ。酒は苦いものだ。今ではあまり感じなくなった。これが彼の言う慣れとやらなのか。
脇に遣った琵琶を手に取る。弦を指で弾くと、びん、と耳障りな音が飛んだ。彼の元で使われていたものだ。びん、びん、と弾く。弦を変えれば、耳障りな音は高さを変える。耳障りなのは変わらないけれど。


「まさか旦那が雅楽なんかに手出すなんてね」
「…いや、貰い受けたものだ。雅楽は以前、お館様に渋い顔をされたからな、やる気はない」
「お館様馬鹿」
「本望だ」


込み上げる笑みをそのままに出すと、佐助は嫌そうな顔をした。
ばちを持って弦を弾く。べん、べべん。謌は詠わない。手向けの謌など、詠わない。月に向かって届くのは、過去に彼の持ち物だったこの琵琶の、耳障りなこの音だけで良い。















詩葬

歌を唱おう。如何ですか?
さてね。提示するとにやりと笑われた。アンタなんか誘うんじゃなかったと顔をしかめる。
歌を唱おう。如何ですか?
しかし歌など知らないもの。誘うとにこりとも笑われなかった。付き合い辛いなあと顔を歪める。
歌を唱おう。如何ですか?
それより団子を供えてやろうぜ!懇願するとにこりと笑われた。嗚呼好きだものね。
歌を唱おう。如何ですか?
うむ、奴にふさわしい歌を唱ってやるが良い。不敬だとわかっても、ジト目にならざるを得なかった。嗚呼アンタは唱わないわけですか。
全く、どいつもこいつも!!あの人のために弔いを唱う人間は、自分だけですか!忠犬宜しく頑張れよって奴ですか!なんて理不尽な!なんて不等で不当な!
しょうがないので真田家忍頭であるこの猿飛佐助、不精ながらあなたのために歌を唱わせて頂きます。
ちょっと独眼竜、やじ入れるなら出ていってくれない!?俺様だって恥ずかしいよ!でも旦那のためなんだから!
嗚呼愛しい愛しいあなたは、戦で立派に討ち死にしました。あなたの勇姿は俺の中で恒久に忘れません。(後ろから、「お前だけじゃねぇ!」と悪罵が飛んできた。くないを飛ばす。黙れお邪魔虫!)赤らかに美しく、あなたの勇姿はただ俺の胸を焼きました。
あなたは強く、強く生きました。前を向いて時々振り返って、味方と敵のちょっとを悼み、けれどあなたは前だけを向いて、立派に生きました。
さよなら!さようなら!尊き気高き人よ!
結局言うことは永遠に永久になかったけど、実は俺は、猿飛佐助は、あなたのことが大好きです!今も!(「さりげなく何言ってやがんだ!」)
さあ皆皆様、お別れの用意はよろしいですか?後追いなんて考えると、あの人が哀しむからお控え下さいよ!
はい、それでは点火ー。
燃える。何もかも、燃える。供えものの団子もあの人が使っていた槍もあの人自身も。
さようなら!叫ぶ。届きはしないとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。
さようなら!さようなら旦那!どうか俺が往くまで、アンタが寂しくないことを!
祈り、叫ぶ。
全て灰になった胚の前で、気がついたら皆が皆、涙で顔を汚していた。嗚呼あなたに会いたいなと思えたのは、漸くあなたが居なくなったことを実感したから。















白葬

白粉をつけて、目尻を赤い紅で縁取り、薄く紅を引いた唇が、なまめかしく開いた。
奴は、死に化粧だと宣った。


「死に化粧は、死んだ奴に施すんだぜ?」
「首が繋がったまま死ねたならば、某にも施されましょうぞ」


奴の意図がわからなかった。されど、艶やかに死に装束を纏った奴は背筋が粟立つほど妖婉であった。炎が生の勢いを殺して、ちろちろ上っ面を舐めるような、密やかに漂う悪意。


「どうされた。夜枷のお相手を某に仰せ遣わしたは伊達殿ぞ?」
「Ha、もうお前にゃprideなんざなくなったみてぇだな」
「お好きなように罵り下さいませ。今宵の幸村は伊達殿の死体にござりまする故」


伊達は、幸村の悪意がその化粧にあると思った。
度を越えた厚塗りの白粉に、本来の血色の良い幸村の肌は埋まってしまっている。代わりに、目元を赤く染めるそれと、唇の毒々しい、紅。なまめかしく、伊達を地獄へ誘う。


「死体…corpse、ねぇ」
「異国語は、某にはわかりませぬ。どうか、優しくご教授願います『政宗様』」


妖婉さを孕み、『死体』が伊達を誘う。胸を肌蹴た寝間着を着た、『死体』が伊達の名前を呼んで手招く。自分を弄ぶ伊達は、死体で遊んでいる背徳者だと、幸村は如実に伝えているのだ。確かに背徳であれ、幸村は伊達の手の内にある。伊達はそれに酷く恍惚を感じた。


「良いぜ。お前の言う『死体遊び』、付き合ってやるよ」
「好き物好きでございますな、『死体』で遊ぶなど」
「言ってろ。『死体』役を買って出た奴がよ」


白い着物が広がる。仰向けになった悪意が幸村と共に伊達へ手を伸ばす。毒々しい紅に口を寄せると、悪意がふらりと揺らめいた。
削除の仕合である。
伊達が先に墜ちるか、幸村の悪意が先に消えるかの、削り合いである。
どんなに体温が上がっても、いくら肌を湿らせても、決して赤くなることのない日本人形のような肌。ただ人工物と違うのは、感情の潜む双眸だけである。その強かな眼光は下手に無気力な『死体』のそれよりも性質が悪い。
薄手の着物と肌の区別が淡白な幸村が、息の荒いまま伊達を睨み上げる。普段蒸気している肌は、白粉のせいで、相変わらず白い。伊達は目眩がした。


「具合は最高なcorpseだぜ」
「戯言を」


悪意と害意が湿った部屋の中で渦巻く。武田の討伐のおまけがこれならば、それもまあ悪くはないと、伊達は端正な人形の死体に口付けた。















黒葬

それは、黒の集団だった。
どこかの魔王軍宜しく、黒の鎧で身を固めたその様は、初めて見た者には、恐らく普段彼らが赤い鎧を着ていたなどと知る由もないだろう。政宗は馬に跨り、それを高見から見ていた。大軍が動きひしめく。それを。
相変わらず辺りに響き渡る合戦場の雄叫びに、いつものようなそれを裂く勇ましい声は聞こえない。覇気もない。
そういえば、これは武田信玄の弔い合戦だ。と、政宗は思った。
喪服のような鎧を着て、武田の意志を継ぎし様々な思いの塊がぶつかってゆく。その中で、政宗は彼を見つけた。
やはり周りと同じ黒の、けれどいつもと種の異なる服の出立ち。政宗の眼下にある真田幸村は、完全な喪服でいつもと同じ槍を振るっていた。黒い集団の中で赤い槍は一際目立ち、甲冑も具足も小手もつけていない彼に、政宗は呆れた。鉢巻きもなく、況してや、少なくとも戦うために非ずなずるずるとした喪服で敵を斬る幸村は、周りと同じく覇気はない。それでも、槍は狙い違わず相手を正確に叩き割ってみせる。翳を背負いながらも落ちることのないその業に政宗は戦慄した。


「怖ぇなあ」


彼の、潰えることも絶えることも死ぬこともない、紛うことなき赤心が。思う先の相手が居らずとも、確固たる存在を持つ幸村の忠誠心が。
自分の槍は彼のため。自分の腕は彼のため。自分の足は彼のため。自分の体は彼のため。自分の心は彼の傍に。
幸村はきっとそう信じて疑わず、槍を振るう。信じていないと槍は振るえないのだ。
衣類、眼球、皮、筋肉、五臓六腑、骨組み、彼の象る全ての物質(つまり不要な付属品)を取り除いたところで、綺麗さっぱりした無機にただ唯一残るのは、その円心ではなかろうか。彼を見ていると必ず一度は思うこと。付属品を取り除き、こざっぱりしたはずの幸村はやはり信玄のことで埋まっていて、政宗の入る余地はない。それは信玄の死後も変わりはしない。
愛馬が首を振った。首筋を軽く叩いてやる。戦の血気盛んな空気に、落ち着かないようだ。


「Ah−ha、こりゃ武田の勝ちだな」


何せ信玄の死を悼む彼がいるのだから。
物見遊山で見にきただけの政宗は、ふと幸村のなびく後ろ髪を見た。赤鹿毛のように鮮らかなそれは、翻っては政宗から幸村の顔を隠す。気に食わなかった。


「良いぜ、無粋だろうがアンタの首、俺が討ってやる」


馬の腹を蹴り、政宗は眼下で広げられている合戦へ飛び込んでいった。















嘘葬

忍が本来何のために在るものか、あなたは、果たして答えられますか?


「無理だな」


そうでしょう。
あなたにはいつまで経ってもわかりっこないでしょう。嗚呼、独りよがりだと口を尖らせないで下さい。仕方のないことなのですから、どうか割り切って下さい。


「嫌だ」


お願いです、お願いです。後生ですから、お願いします。
理解してくれ、なんて、傲慢ちきなことなど言いません。けれど共有して下さい。了承して下さい。でないと仕事になりません。


「そんなこと知らぬ。知りたくもないでござる。例え、お前の頼みでも」


我が儘。


「言うが良いわ。されど、認めんぞ」


我が儘。昔から手のつけられないやんちゃっ子だったけど、いい加減落ち着きを身につけて下さいよ。
嗚呼、泣かないで下さい。主に泣いてもらうなんて身に余る幸せなんて、分不相応ですから。仲間に絞め殺されちゃう。忍として駄目になっちゃう。


「しかし!」


あ、と。自己紹介が遅れました。小生は「棚田」と申します。これより真田源二郎幸村あなた様の御為に、前任の忍頭「猿飛佐助」に替わり働く所存にございます。
良いですか、幸村様?「猿飛佐助」は任を全うしてあなた様の前で死にました。今あなたが見ている男は「棚田」にございます。
良いですか、幸村様?小生は「棚田」、にございます。


「…納得が行かぬ」


それも結構。よろしいでしょう。その内にわかることでしょうから。
あなたに忍の辛さ役割をわかってもらう必要はないのです。逆を言うならば、本当は知るべきではなかったのです。
泣かないで。泣かれたら、あやすしかないでしょう。「棚田」は、幸村様のあやし方を知らないのですよ?嗚呼割り切って。泣かないで。お願いですから。「猿飛佐助」に申し訳が立たない。


「知らぬ。貴様など、某は知らぬ!」


当たり前です。小生は、初めてあなたに自分の存在を知らせる許可を頂いたのですからね。
くどいようですが、「猿飛佐助」は死にました。良いですね、幸村様。


「ならば、奴と同じ顔で、奴と同じ声で、某の前に現れるな…」















無葬

佐助は、否、幸村其の一は川辺に降り立った。外見だけでもそっくりな偽の幸村は、あと数人ほど方々へ散っているはずである。幸村其の一は竹筒に水を一掬い、汲み上げた。
主の命令は絶対だ。割り切りも上手く往かずに煮えきらない思いの佐助はそう自分に言い聞かせた。しこりを無理矢理嚥下する。
戦に参加しなくなった主は、亡き恩師の墓標として生きると言う。その間佐助ら幸村に仕えていた草の者は、幸村に扮し、幸村の生存を疑っている輩を混乱させよと言ったのだ。無茶なことを言うと思う。少なからず、幸村の生存を願い、またその手に槍を持たすことを望んでいる人間は多少なりともいるだろうに、幸村はその全てを蹴った。ただ一人のために背中に背負い込んでいるもの全部を完膚なきまでに捨て去る幸村の覚悟は、一面で忍にすらない潔さ、割り切りの良さであった。
幸村其の一こと佐助は、竹筒を掲げてふと川を見た。途端、舌打ちして竹筒の中身を川にそっと流す。それに添うようにして魚が寄ってゆく。その白い腹を見せ、空を仰ぎながら。いくつも死んで引っくり返った魚を佐助は、苦々しい顔付きで見た。佐助が川辺で何かしらするのに合わせて、水上から毒が流されたのだ。居場所が知られていると思った佐助は、早々に場を辞そうとした。


「Hey、動くなよ」


喉元に刀が不意と置かれる。勿論佐助の持っている真っ赤な槍とは、射程は比べるべくもないが、使い慣れない得物で主と対等に渡ってみせた彼を凌ぐのは正直難しい。そして、そんな彼も、幸村の戦場への復帰を望んでいる内の一人である。


「何人も何人も偽の幸村ばら蒔きやがって。お前の策か?忍」
「…興醒めだね。その、何人も何人もの偽者の真田幸村を使い物にならなくしたの、アンタだったの」
「俺が認めたのは一人だけだ」


は、と佐助は笑った。勿論友好的な感情など一切捨てた、嘲笑にも近しい笑いである。


「幸村はどこだ」
「言うと思う?」
「言わせるさ」
「………」


頑に幸村の背中を追い求めているこの男に、佐助は酷く苛立ちを覚えた。ふんと鼻で息を吐き、彼を睥睨する。
正直この男のことを、佐助はとても羨んでいた。佐助からして見たら馬鹿馬鹿しい中身の、主の命令なんかに付き合うこともなく、一見無粋とも言える抑止をこの男はできるのだ。立場まで対等な彼を、佐助はとても羨んでいた。
けれど、


「残念だったね。アンタは俺と同じで捨てられたんだよ」
「Ah?」
「旦那は二度と槍を握らない。握らせない」


だって、じゃないと俺が報われない。
顔が酷く歪むのを自覚して、佐助は彼に無理矢理笑いかけた。


「アンタも俺も、旦那から見れば大将よりか下で、切り捨てられるとかげの尻尾さ。アンタは旦那にとってその程度なんだ」


ふとぶれた刀の切っ先を無理に反らし、佐助はぴょんと木の枝に飛び乗った。憎々しげに彼はひとつしかない目で幸村の姿そのままの、佐助を睨む。


「旦那はアンタが思う以上に残酷だよ」


何せ俺に、真田幸村として死ねと言っているのだから。















生葬

人生上手く往かないものだ。慶次は思った。しかしそれは行き詰まり、鈍詰まりに遭ったからではなく、達観してこれまでを振り返ったまでの感想である。
好きな女はゴリラ似な男に嫁いだ先で男に殺され(それを思うとまだ少し胸が痛むが、慶次は決してそれを女々しいと思いたくはなかった。人間情感あってこその人生というのが慶次の持論であったからである)、その男は自分の屁理屈故に女を殺したのだから、事情は複雑と言えば複雑なのだが。
諸国の物見遊山ついでに南蛮の異教徒宜しく(中国の大名がそれに感化されたというのが専らの噂である)、色恋の醍醐味を見込みのある人間に伝えるべく慶次は信濃の上田にいた。備考として、慶次は恋も好きだが喧嘩も好きである。


「なあなあ、いい加減機嫌直してくれたって良いじゃん」
「直りませぬな。慶次殿が来られる前までは某の気性も落ち着いていたものを」
「悪かったって思ってるよ。出会い頭に殴ったのもさ」
「知りませぬ」


難攻不落とはまさにこの男のためにある言葉ではないだろうか。慶次は、眉間に深い渓谷を湛えたまま茶をすする幸村を見た。
幸村は誰がどう見ても、十中八九、どこがどう育ったらこんな戦や信玄公のことばかりを考える脳味噌が出来上がるのか、首を捻るのみの堅物である。色恋事は勿論経験もなく、下手を打てばそれを口にすることすら顔を赤く染めて拒む。初の度を通り越している幸村のその反応を目の当たりにして、慶次は意識が遠くなると同時に、幸村を哀れんだ。人生の半分を損してる!と。そして目下布教中、なのだが。


「落ちねぇなあ」
「城にござるか?」
「いや、違うけど」


どこがどう育ったら、こんな戦や信玄公のことばかりを考える脳味噌になるのか。団子のことで嬉しそうにする幸村は、暑苦しさなどさっぱり抜けた、小綺麗なただの男だというのに。
曲折し始めた自分の思考に慶次は気付いていない。















還葬

行ってらっしゃい。
ただその一言だと軽んじるなかれ。それは呪咀である。一瞬にして相手の手綱を握る、相手を鎖で繋ぐ、魔の言葉である。佐助は己の手に握る鎖を茫然として見た。嗚呼、アンタの体はとっくに燃えていて、なのに魂魄だけで漂っているのが今もわかるよ。
可哀想な旦那。アンタをそんなにした俺を、恨んでも構わないのにね。


合戦場にいる夢を見た。
赤い服を着た半裸に近い男の後ろで控えている。彼は何か言って、佐助を振り返った。決死の、決別の顔をしていた。男らしい顔だった。無言で手を振ってやれば良いものを、佐助は進む彼の背中に言ってしまった。


『行ってらっしゃい』


と。
彼はぱちりと瞬きをして佐助を見返す。その、場にそぐわぬ幼顔に、佐助は苦笑いをして背中を押した。行っておいで。彼は勇ましく笑い、応と言った。そしてその姿は掻き消えるように見えなくなり、
そこで目覚めた。涙で濡れた頬が枕をも濡らしていた。目が腫れぼったい。きっと真っ赤に染まり上がっているだろう。
赤。あの人のいろ。名前の思い出せない、あの人が背負っている色。きっとずっと、あの色を背負っていくのだろう。
涙が止まらない。子供のようにしゃくりあげると、朝の陽射しが目に染みた。
あの人の魂魄が未だにさまよっている。ふらふらと、行ってらっしゃいの約束を守るために。ただいまを言うために。
ベッドから降りる。冷やさなければ、この顔は、もっと腫れぼったくなってしまうだろう。いつあの人に会えるかわからないのに、こんな無様な顔は見せられない。妙な見栄を張り、佐助は洗面台に立った。やはり赤くなっている。
あの人に会えたらなんて言おう?感動の再会ってことで泣いて罵倒して、最後には笑って抱き締めてやろうか。そう考えて、また、じわりときた。今日の夢のせいで、どうやら涙腺はぼこぼこに壊されてしまったようだ。名前も思い出せない人の影響力は相当なものらしい。
大学に遅れると、部屋を出る。
アパートの階下は小学生の通学路になっているのだろう、子供らしい高い声がきゃっきゃと聞こえる。


「子供は楽で良いねぇ」
「そうでもない。子供は子供なりの苦労があるぞ」


独り言のつもりだった呟きに返る、思わぬ間の手に、佐助ははっとした。群がる小学生に支給される黄色の帽子がひしめく階下、佐助を見上げる子供が一人。


「行ってきます、だ、佐助」


目の合った子供は、教えてもいない佐助の名前を呼んでにこりと笑い、小学生の群れと共に行ってしまった。佐助は脱力したように手摺にもたれた。


「…行ってきますの前に、ただいまでしょ」


泣く暇も与えないほどの暴風のような再会だった。まだ名前を思い出せていないことに、彼は怒るだろうか。















終葬

見よや幸村。
誰が死んだとて、乱世などほれ、終わりはせぬわ。