水葬    火葬    空葬    闇葬    土葬
光葬    鳥葬    風葬    密葬    雪葬



水葬

そうだ流してしまおう。
元親は思った。
全て水に流して、今まで全部をなかったことにしよう。今がとても辛いから、取り除いたら、楽になれるのではないかと、元親はそれに至った。そしてその考えが、どれほど安易で、浅はかなものかを直ぐ様思い知る。


「元親殿ぉ!」


武田の軍門に下ってから急に、敵将であった真田幸村は元親を下の名前で呼ぶようになった。何故かと問えば幸村曰く、元親の武将としての実力はとても素晴らしいから尊敬の意を込めて、だという。褒め千切られて気恥ずかしいでもないが悪い気はしない。
元親は、戦中ずっと険しい顔をしていた癖に、今になって笑みを振り撒く幸村に手を振って応えた。野太くかすれた、男らしいといえばそれまでの特徴ある幸村の声はよく通る。小走りになって寄ってくるその様はまるで子犬だ。
幸村は頭ひとつ分高い元親の顔を真っ直ぐ捉え、にこりと笑った。決して目をそらしたりはせずに、相手の視線を縫い縛るそれはそこそこ好感を持てる。


「よぅ、幸村」
「如何お過ごしでしたか。息災のようですが」
「まあ、それなりに」
「大事なければ、良きことにござりまする」


信玄公に任された、京以南の水兵統括の状況を幸村が知りたいと思わないはずがないのだが、しかしそこは場をわきまえているようで元親に質問攻めをしない。
幸村にある程度の分別や学があることを、元親は素直に驚いた。それに幸村は、「某も武士の端くれにございまする!」と眉を吊り上げた。まあその通りなのだが一時座敷で暮らしていた元親の目からすれば、茶も立てられないわ歌も詠めないわ、修正の仕様はいくらでも思いつく。それを言うのは酷だと考え、元親は黙っているけれど。


「今日は城下のどこを案内してくれるんだ?」
「はい、この間は南方を一部でござったのでそこから」
「幸村の好き団子屋は?」
「ありまする!」
「じゃあ後で食おうか」
「はい!」


団子と聞いて浮かべられた幸村の満面の笑顔に、元親は心安らいだ。毒気も打算も腹黒さも窺えないそれは、どこまでも元親を癒してくれる。
嗚呼やはり忘れるなんて出来やしねぇと、元親は晴れ渡る甲斐の空を見上げた。
そうだ水に流してしまおう。一瞬でも浮かんだこんな馬鹿げた考えなど、流してしまおう。















火葬

火事と喧嘩は、そういえば京の華ではなかったろうか。思い至って慶次は、首を傾げた。江戸だったっけ?
とりあえず、燃え盛る炎を眺め、慶次は綺麗だなあと呟いた。隣で消火活動をしていた町民が、不謹慎なと顔をしかめ、だけれど慶次の大柄な体躯がそれを黙らせる。慶次は相変わらず、乾燥した空気の火種になった不運で哀れなひとつの民家を物見遊山に眺めていた。もう一度、擦り込むように言う。綺麗だなあ。
あの炎の元が、甲斐の上田にいる真田幸村だったら、もっと良かったのにと思って、慶次は戸惑った。おぉいどうしたんだ俺、もしかして男に恋ですか、そんな冗談きついよ。
嗚呼人の気も知らぬように炎は燃え盛る。まるで人の気も知らぬ彼のように。一途に燃える、彼のように。


「…幸村」


慶次殿


「幸村」


慶次殿。
夢想する、懸想する。
居もしない人間に呼び掛け、そしてそれが応えるような、甘やかな響きを想像する。自分でも気持ち悪いかなと思う。
慶次は炎を見た。あの炎に包まれているのがただの民家ではなく真田幸村という真っ直ぐで一途な武将ならば、慶次は泣き叫んだのだろうか。















空葬

真っ赤な傘を掲げ、幸村は雨に濡れた可哀想な青年の雨宿りを手伝った。
霧のような小さく細かく軽い雨が、さらさらと流されるように降る。傘に滴る雨垂れも、いまいち重くは感じない。
地面に目を落とすと、流れている血で真っ黒になっていた。
くすぶる戦火に、標的になるように真っ赤な傘をさし、棒立ちになっている自分の滑稽さ、また、吹き消えそうな己の命にしがみついている、この青年の惨めないとおしさ、全てに幸村は嘆息した。


「…死ぬのですか」


まるで確認するような声音。彼の死が既に決まっていることを自分は承諾して、その上で彼に最終通告を渡してもらうことを望んでいる、図々しさ。吐気がする。
彼は、伊達政宗はあえぎあえぎ言った。


「…嗚呼」


背中にひとふりの刀が生えている。じわじわと、政宗の命を吸うそれに、幸村は嫉妬を感じた。


「…嗚呼」


政宗は繰り返す。
幸村はごみのように倒れている政宗から目をそらし、空を見上げた。しとしとさらさら降り止まぬ霧雨の後ろの空は、汚い雲に覆われて真白に染まっている。政宗の着ている(今は血と混ざって紫になっているけれど)青色は、残念ながら窺えない。けれどまるで見えているように政宗に言った。


「見て下され政宗殿。空がとても綺麗でござる」
「…」


政宗は身動ぎひとつしない。命はどんどん流れてゆく。
幸村は一度政宗に目を向け、また空を仰いだ。傘は無用だと、手を下ろした。濡れそぼる、幸村と政宗。
この男も死んで逝くのかと改めて思うと、不思議と感慨深さが込み上げてきた。いつも自分を見下し、見下ろし、どこか侮蔑するような目で話していた男が、今や惨めに這いつくばっている。彼と顔を会わせている内に感応したのか、ざまあみろとは決して思わない。けれど、心の奥でこの男は殺しても死なないのではないかと神聖視していた気がする。
ただ、感慨深さだけが。


「空のあおが、今日は見えない。大変残念でござる」


この男は死ぬのか。惨めに、ひたすらに、真っ直ぐに死に向かい走るのか。それではまるで、まるで。


「折角、あなたの色だというのに」


まるでごみのようではないか。嗚呼お可哀想な奥州筆頭。
あなたの最期はごみでした。















闇葬

しんでもゆるすものか。


無機質に脇腹から垂れ下がったものが、ふらふらと風に揺られている。寒さは感じない。何故なら、五臓六腑には感覚がないからだ。但し脇腹の傷の周りはしくしくと波のような疼痛が干満を繰り返している。嗚呼、ここまでの痛みなど、生きたままに味わう人間などそういないのではないだろうか。大概は悶絶死してしまうだろうから。そこまで考えて、幸村は微笑を溢した。己の屈強な精神力に乾杯。完敗。
微かに漂ってくる、未だ続けられている戦のきな臭い臭い(戦慣れした者にしかわからないこれに、優越など考えるべくもない)に幸村はふと口内をひたひたと満たす血を噴水のように吹き出した。腹筋が割れるように痛んだが、遠慮なく血を吐く。どうせ臓物を垂れ流した兵士は帰れない。
戦場にも、尊敬する彼の膝元にも。
幸村は、あのまま殺されそうになっていた自分をあの場から連れ出した、感謝すべき忍を逆恨みした。どうせなら一思いに死なせてくれた方が良かったものの。


「旦那、傷の塩梅は?」


戻ってきた忍に、幸村はあくあくと口を開けた。肝を垂らした傷の具合を聞く馬鹿がどこにある、と。忍は肩をすくめた。


「仕方ないでしょ。アンタが死んで喜ぶ人間がいるってのに、おめおめと首なんて証拠品とらせるわけにはいかないから」
「…」
「アンタは俺様の、大切な」
「…わかって、おるわ。そのようなこと」


ぷ、と血を飛ばす。団子の串ならばどれだけ良かっただろうと、甘味のまろやかな舌触りを思い浮かべながら吐き残した血を飲み下す。鉄錆の味がした。美味くは、勿論ない。


「…それで、証拠なぞ、なくとも、俺は死ぬぞ」
「まあその傷なら放っておいても死ぬだろうな」
「なら、お前は、どうする」
「命令してよ」


木に躯を預け、忍を眺め回す。何と言われたのか、よく伝わらない。思考そのものが埋没し始めたのだと、幸村は戦慄した。友のような気楽さを持って、確実に、とつとつと、死はちかづいてくる。お前と友になった覚えなどないと幸村は低迷し始めた意識に抵抗するが、恐らくこの、死の持つ親しさは誰にでも向けられるのであろう。
その間にも忍はもう一度、命令してと言った。真田幸村に、扮するように、と。幸村は漸く忍が自分を影武者に取り立てろと言っているのだと理解した。


「…死んだ俺を、どうする」
「埋めるさ。墓標はごめん、立てられないけど、獣に掘り返されないところに」
「…」
「アンタの意志は、俺が継ぐから、お願い、旦那」


曇る視界が刹那すっきりしたときに、幸村は忍の顔を見た。いつになく切羽詰まったそれに、幸村はおかしくなった。どうした佐助、お前らしくもない、と軽口はかすれた吐息に変わる。声も満足に出せないことに、また、死の跫が聞こえる。死に対する錯覚か幻聴か、けれどやけにはっきりと聞こえた。


「旦那」
「…伊達殿に、ほだされるなよ…」
「それを俺に言う?」


忍は苦笑いをした。幸村も僅かに口角を上げて応える。


「あんな男に惚れる物好きは旦那くらいなもんさ」
「何、を言う。…あれほど、男を惚れさせる男など、そうもいまいて」


忍は何かを言いかけて、とどまった。その顔が魚の骨を詰まらせた自分にそっくりで、幸村は声をあげて笑った。結果としては笑い損ねて吐血になってしまったが、幸村は清々しい気分になった。
目を閉じる。


「さ、すけ…」
「傍に居るよ」
「…伊達殿に惚れたら、許さぬぞ」
「肝に命じておきますって」
「ならば、こっ酷く振って遣れ。逆恨み、するほどな」
「任せて」


瞼に遮られたはずの薄暗い視界の中、下の方から本物の闇が迫り上がってきた。これが死ぬことならば、そう悪くはない。薄ぼんやりとした白濁の思考と迫り上がる黒に目を回しながら、幸村はぽつりと呟いた。
約束を破ったら、あの世で針千本体に突き刺してやる。あれにほれたら、しんでもゆるすものか。
たどたどしいそれは呪縛となり遺言となった。言葉の花がしかと忍に植わったと感じ、幸村は迫り来る黒の津波に身を委ねた。















土葬

大変残念ながら、最早手遅れとなり申した。口惜しいかな、某はもう既に手遅れでございます。どうか捨て置かせて下され。
世界は白く、黒で縁取りされた円だった。端的で簡素であれ、それ以外は必要がなかったのだ。
なのに、なのに。


「…旦那何してるの」
「おお佐助!民から某かの種をもらってみたのだ。育てたら、何になるだろうな」
「さあねぇ。俺様としては、こんな真夜中に庭で土いじりしてる旦那の方が、種の正体よりも不可解なんだけど」
「ならば俺のふかかいは、佐助が寝間着でないことだな」
「張り合わないでよ」


幸村は佐助に取り合わずに、たった今掘り起こされた庭の土のこんもりした膨らみ(恐らく種とやらが埋まっているのだろう)にぱんぱんと手を合わせた。


「…いや、なんで手を叩くの」
「よく育つようにだ」


佐助には、まるで仏に手を合わせるような雰囲気を感じるのだが、そんな不吉なことを言ったら幸村は眉を寄せ、頬を膨らますのだろう。失礼なことを言うな、と。
幸村は井戸で手を洗い、佐助の立っている縁側に登った。幾分年が下の幸村は、何年経っても佐助を追い抜かすことはない。それに安堵しつつ、佐助はにへらと笑った幸村に部屋に戻るように言いつけた。幸村は子供ではないと反論すれども素直に従う。


「ん?…旦那、あれは?」


佐助は土の山の隣に板切れが刺さっているのを見つけた。何か書いてあったが夜闇の暗さでよく見えない。夜目が利く佐助は、辛うじてそれが幸村の筆跡だとわかった。


「誰かの墓の代わり?」


茶化したつもりだった佐助は、幸村が思いの外険しい顔をしているのに息を呑んだ。幸村は鼻に皺を寄せ、機嫌を損ねたと肩を怒らせて部屋に向かう。夜中だというのに無遠慮なその足音は、それだけ幸村の機嫌の傾き具合を顕している。幸村が小さく、思い出させおって佐助の馬鹿と、罵倒したのが聞こえた。


「…どうしたのさ旦那」


幸村は一度佐助をきつく睨んで、それきり部屋の障子をぴしゃりと閉めてしまった。佐助は首を傾げ、庭に降り立つ。板切れを見て、佐助はバツが悪そうに頭を掻いた。


「…は、随分縁起の悪い墓だこと」


真田源二郎幸村 享年某歳 某年某月某日 伊達政宗に捧ぐ。
胸糞の悪い厄介な恋慕だと、佐助は閉めきれた幸村の部屋の障子を見つめる。こんなものを作ったのだから、幸村当人も気付いているのだろう。















光葬

遺憾なことに、伊達政宗の武士としての威厳とやらは、疾うに失われていると見える。
幸村は薄暗い空間を見た。石の冷たさは出血で上がった体温を優しく鎮めてくれる。あのまま発熱したままだと腕を振り千切ってでも伊達政宗の首に喰らいつきそうだと思った幸村は、この冷たさを有り難く思った。
痛みが潮彩のようにうつらとやってきては、傷を一舐めして去っていく。目を瞑るとそれが顕著になり、幸村は、まだ出血している肩の傷に熱い息を吐いた。
待て。時期が来るまで待つのだ。でなければ狂ってしまう。既に狂っているのかもしれないけれどと、幸村は自嘲した。
猿も入れないほど小さな天窓から差し込んでいた、陽射しが緩やかに、細くなってゆく。時間の経過を刻一刻と幸村に伝え消えていくそれを、幸村は酷く嫌悪した。
日が完全に落ちれば奴が来る。
幸村に苦痛を強いた張本人が来る。
が、こん。牢の格子が外れる音がした。


「Hey、良い子にしていたか?」


幸村は血反吐を吐いた。気丈にも伊達を睨みつける。伊達はそれに満足したように笑い、幸村の頬を撫でた。片手に刀を三本も抱える、無骨で節くれだった男の掌の粗い表面が、血のこびりついた幸村のかんばせを、未知の宝石のように、丁重に撫でた。嫌気が指して幸村はむずがるように首を振る。伊達はくすくす笑いながら手を放す。伊達の体温に溶けかかっていた幸村の肌が、石に冷やされた空気に触れ、震える。


「Oh、そんなに邪険にしなくても良いじゃねぇか」
「…何を申すか」


気狂いの癖に。
幸村は密やかに呟いた。伊達は面白そうに笑い、刹那、幸村の横っ面を殴った。顔の傷が開く。汗よりも熱い、血液が顔の表面を伝う。


「わかってねぇだろ。アンタの命は俺の胸三里、だぜ?」
「なればさっさと殺すが良かろう。それとも独眼竜は生殺しがお好きか?涼しげなお顔の割に、随分なご趣味をお持ちで。将来そなたの奥方になられるお方は、とんだ貧乏くじをお引きになるようでござるな」
「あんまり減らねぇ口叩くと、その口に馬の糞突っ込むぜ」
「そんなもの、そなたに吐きかけてくれる。少しは男が上がりましょうぞ」


幸村は嘲笑い、伊達も憎々しげに笑った。
不意に伊達は、幸村の右目に指を置いた。何かと問う前に、その指が突き進んでくる。一瞬のことでよくわからなかったが、自分の口は獣染みた悲鳴を上げていた。目の奥がじん、と熱くなる。涙が出ているのだろうと右目に当てた手は、残った左目には赤く映った。酷い喪失感が背筋から沸き起こる。
目を見開き、悲鳴をまだあげる幸村を見ながら笑う、伊達の手の中には血にまみれた小さな球体が納まっていた。


「Ha!ざまぁねぇな真田幸村!これで俺とお揃いだ。とりあえず喜んどけ」


幸村の目玉をころころもてあそびながら、伊達は勝者の如き酷薄な笑みを見せ、牢を出ていった。
幸村は、獣のように鳴いた。唾液を振り乱し、ただ伊達の出ていった牢の格子を睨み、右目が陥没した感触に耐えた。
次にあの男が姿を見せたら、問答無用で噛みついてやろう。
幸村は低く唸った。















鳥葬

自由に、とにかくなりたかった。つまらない家徳など、いらなかった。
次男であるはずの自分にそんな話があるとは夢にも思わなかった弁丸は、馬に飛び乗り、家から転がるようにして逃げ出した。
遮二無二泣きながら馬の腹を蹴った弁丸は、気が付いたら国から出ていた。今まで国から一歩たりとも出たことのなかった弁丸は、道なりに延びる一本路を馬に任せて泣いた。
心細かったのもあるし、腹の内のわからない父が恐ろしかったというのもある。
歯を食い縛り、馬の髪をゆるりと撫でる。馬がいなないた。


「…父上のうつけ。次男の俺に家など、継げるものか」
「へぇー、とんだ腰抜がいたもんだ」


振り向くと、鎧を着た人間がいた。弁丸と同じく馬に乗り弁丸を見下ろしているそれは、戦帰りなのか微かに血臭を漂わせている。自分とは違う、明らかな武士の雰囲気に、弁丸は僅かに顎を引いた。武士は、は、と笑う。馬鹿にされたと気付き、弁丸は涙を拭いて相手を睨んだ。
武士は、前立てが月のような兜を被っていた。右目が使い物にならないのか、眼帯で覆われている。欲張りか、左右に三本刀を差していた。


「ど、どなたでござるか?」
「Ha!自分から名乗れもしねぇ礼儀知らずに名乗る名前はねぇな」
「ぐ、それは申し訳ござらぬ。某の名前、は、弁丸にござる」
「家名は?」
「…真田でござる」


弁丸はゆっくり呼吸を繰り返した。血臭に軽く酔い、目眩がするのを落ち着かせる。


「ふぅん、真田、な。歳からして元服前か、…お前は鳥に食われない実だな」
「?」
「鳥も食えないほど不味い実ってことさ」


弁丸は牙を剥いた。何も知らない人間にそこまで言われる謂われはないと。その様子が子供だと、武士は言う。


「…某は、そのようなつまらぬものにはなりませぬ」


ほう、と武士が笑った気配が忍び寄る。口角が横に広がった。まさか弁丸が話術で言い返すとは思わなかったのだろう。


「某は、そのようなつまらぬものにはなりませぬ。鳥に食われて、糞に混じった種まで育つ、実に某はなりまする」


武士はげらげら笑った。そして、何やら嬉しげに言った。どうやら異国語のようだ。


「OK真田、なら、ちゃんと食われるような美味い実になれよ」
「お、桶…?無論、言われるまでもなきことにござる」


甲斐はあちらだと、武士は言った。指差された方角を一度見た弁丸は、何故甲斐の出だとわかったのか、武士に問おうとして、瞬きをした。
そこには既に武士の姿も馬の姿もなく、鬱蒼と茂る雑木林が変わらず横たわっている。狐にでも包まれたのかと弁丸は首を傾げながら踵を返した。















風葬

辻斬りのような鮮やかさが欲しい。
そう思った。辻斬りの、哀婉な生き様に強く憧れた。なりたいとは思わないが、憧憬をいだいた。嗚呼かくもあのような奔放さを持つことができるのかと思い、感嘆した自分は、酷く窮屈な思いをしているのだろうか。
その旨を、ちょうど訪れていた知人に言って意見を求めた。


「お前それ危ねぇよ」
「そうでござるか?」
「考え方っていうか、何ていうか…全部危ねぇよお前。なんか悩みでもあるのか?」
「元親殿には生憎、解決できないような分野だと思うのですが」
「嗚呼、嗚呼、どうせ俺にゃ無理な話だよ」


そっぽを向く彼の様子がまるで可愛かったので、思わず笑ってしまった。繕いの咳払いも無駄なようだった。元親殿は笑うんじゃねぇと、口に団子を詰め込ませた。黙れという意思表示らしい。こんな口の塞ぎ方ならば、伊達殿のするメリケンの挨拶と言われている接吻よりも大歓迎である。
その挨拶のことを言ったら、元親殿は酷く荒れた。何を怒らせてしまったのか、未だわからない。
焙じ茶をすする。緑茶とはまた違った甘味に顔が綻ぶ。うちの忍は目利きも優秀だ。
話を元に戻すと、いわゆる今の自分に不満を感じているのだ。元親殿にそれを言うと、始めからそう言えと軽く叩かれた。何故!


「だからって辻斬りはねぇだろうがよ。飛躍しすぎだ」
「はあ…しかし表現がそれしか思いつかなくて…」
「お前に上等な表現方法なんてハナから求めちゃいねぇよ。普通に話せ普通に」
「些か気になる物言いでござるな」


また、団子が詰め込まれる。元親殿の分まで食べてしまった。
辻斬りというのは、ああしやごしやと嘲るには分不相応な気がする。他者を壊すと同時に、己の輪郭をも崩す。一見人格を破綻させているだけに見えるが、なかなかに、興味が深い。魅力は、尽きない。
一陣春一番が吹いた。吹いた方向を見ると、元親殿も春一番を追い掛けていた。彼は、もし自分の輪郭が歪になってきたら、こちらにちゃんと留めておいてくれるだろうか。
無尽蔵な猜疑がまた、口を開いて団子を食った。















密葬

猛将真田幸村の格好をしたそいつは、真田幸村と同じ赤い鉢巻きをして、くるりと石畳の上で回った。長い後ろ髪と鉢巻きの余りがそれを追う。


「だって、仕方ないじゃん」


そいつは言った。
真田幸村と同じ声で、けれど彼にはない静けさを含んで。
奴はまだ回っている。目が回るのではないか。それくらい、よく、回る。そんな一種猿のような身軽さは、生憎真田幸村は持っていない。


「命令だもの。主の命令に、逆らえるわけないでしょ」
「…」


最期の、とそいつは敢えて言わなかった。お互い話題に昇っている人間がこの世を去ったことなど承知の上だからである。
目の前のこいつはその件の真田幸村と寸分の狂いもないが、どこかが歪だった。持っているもの全てが、僅かずつ、自分の知っている真田幸村という人間とずれがあった。


「俺は真田幸村だけど、アンタがうつつを抜かした真田幸村じゃないし、個人的に言わせてもらうとアンタのこと、ちょっと苦手なんだよね」
「Ha!そりゃ奇遇だ。実は俺もなんだ」
「へぇ、真田幸村が好きな癖に?」
「嗚呼好きだな。大好きだ」
「うっわ、恥ずかしい人。なんで臆面もなく言えちゃうかな」


それは事実なので仕方ないのでは。
真田幸村の姿をしたそいつは、また、別の石畳の上にひょいと飛び乗る。武士には有り得ない、それ。真田幸村に有り得ない、かといって見覚えのないわけではない身のこなし。
奴は、真田幸村の命令を忠実に守っているだけである。ただ、亡き主の言いつけを守っている、忠犬である。だからこそ気に食わない。


「だから、伊達殿の申されることは聞き入れられないのでござる。某は真田幸村でなければならないので」


最後に本物と変わらぬ笑みを残して、忍のように奴は姿を消した。畜生、と日本語で呟いたのは、何年振りだろうか。















雪葬

鼻についたのは、淡い牡丹雪だった。冷えきったはずの体はまだ体温を湛えていて、雪はすぐにくしゃりと崩れてしまった。
背中に当たっているのが硬く固まった根雪でなく、柔い新雪であることが唯一の救いか。政宗はため息を吐いた。冷たい空気が肺をちくちくと刺し、ため息は凍りついて白く濁り、積もる雪は汚いものを塗り込めるようにただ白く。勿論その汚いものには様々なものを垂れ流している政宗も含まれているのだけれど。
糊塗するように降り続ける雪に、政宗は、少し怯えた。
仰向けに寝転びながら、振り仰ぐ。逆さに写るは一本の赤い棒。否、視界に入りきらないだけで、政宗はそれが何物なのかを知っていた。


「いぃやぁ、こんなところで果てるつもりはねぇよ」


墓標代わりのそれに言葉をかける。答えはないが、政宗の脳裏に墓標代わりよりも鮮やかな紅が翻った。


「ここは寒いな。辛くはねぇか?…寒いわけねぇか。お前はalways腹出してたもんな」


紅がひらりと翻った。否定も肯定も享受も拒絶もしないで。
時折巻く風に雪が不規則に揺れる。
政宗はじっと待った。己の中にあるくろぐろとした世界が雪にゆっくり排出されるのを、寒さに晒されながら。相変わらず自分がくたばるか世界が消えるかの二者択一どちらかという狭間で、今回ばかりは政宗は、自分の敗北をひしひしと感じた。
このまま凍え死んだら、果たしてあれに逢えるだろうか。無理だろうなと諦め、政宗は空を仰ぐ。いつだって、誰其だって孤独を喰らう。
嗚呼あれに逢えたら今すぐにだってこの命など捨ててくれてやるのにと政宗は惜しく思った。
その考えを遮るように強風が政宗を煽った。雪を巻き上げ昇っていった風は、政宗を嘲笑い、隔世の感を教えていた。まだお前はあちらに行くことは出来ぬ、と。
潮時を悟った政宗は、埋もれた体を起こした。粉雪が風に舞う。これ以上留まっていたら、本当にそのまま逝きそうである。


「I got it、また来るぜ」


くろぐろとした想いを、政宗の胸を占める世界を捨てに。
風が急かす中、後ろ髪を引かれる思いで進めかけた足を止め、振り返った政宗は、その叙景を眺めて悲しそうに笑った。


「OK…わかってるさ。そこは俺のいて良い場所じゃない。そこは、お前だけの居場所だ」


雪風に吹かれながら、身の丈を悠に越える槍が雪の上に、ただ鎮座していた。