ありんこの謌




がつ、と頬骨の辺りに拳が埋まった。流石に尻餅をつくような愚昧は冒さないが、歯を食い縛るのが遅れたようで、僅かに唇の端の皮がめくれて血が噴き出していた。政宗は傷めた拳を握ったまま降ろし、緩やかに流れて顎に滞納する血を見つめる。唯一利く目が一瞬ぼやける。


「アンタ、一体何がしてぇんだ?」


じくじく、赤く腫れた頬にそっと幸村が手を沿える。早く冷やさないと青黒く見るに堪えない痣になってしまうというのに、政宗は何も言えなかった。殴られた幸村は顔を戻しもせず、視線も明後日のまま、それがやたら目障りに感じた。


「答えろよ、なあ。アンタは俺にsympathyでも感じてんのかよ。くだらない安い同情でも、俺に売りつけてんのかよ、なあ、真田幸村ァ!」


違う違う違う、こんなことがしたいんじゃない。こんな激昂などしたいわけではないのだ。
幸村は目をそらしたまま、口を開いた。政宗は肩を掴みたかったが、すがっているような格好になるにはその高すぎる矜持が許さなかった。握った拳を開けばすがる。政宗はそれに恐怖する。


「別に…別に同情などしてはおりませぬ。某の望んですることにござる」


その言葉にさえ、政宗には同情心が滲んでいるように思えてならない。
幸村の本質は追従だ。


「アンタの望むこたァ、大人しく殴られることかい?」
「政宗殿が某に望まれることこそ、某の望むことにござる」


こいつが女だったら、それはもう良妻となるだろう。しかし彼は武士で、かつてまでは政宗と力の拮抗をして見せたほどの強者だ。他の女と同じような慎ましさ、奥ゆかしさなど必要ない。武士なのだから、男なのだから。


「アンタまで、俺の気まぐれに甘んじて振り回されるのか」


欲しかったのは対等だ。共有だ。
幸村は目を見開いた。一拍遅れて涙がぼろっと落ちるが、もう溢れはしなかった。血と涙が混ざり、些か透明な赤色が足元をうがつ。泣かせるつもりがなかったなど、今更詭弁に過ぎない。しかしその涙は、政宗の言葉が幸村の真意の望むところではないということ、おかしくも政宗は静かに安堵した。


「幸村」
「某は、死ねと言われても死にませぬ」
「幸村」
「この身はお館様の御為に尽しとう存じまする」


なれど、と幸村はわなないた。また目から涙が、赤血球の抜けた血液が、彼はどこか痛いのか。殴られた頬か、切れた口唇か。


「政宗殿が死ねと仰せになられるほどに某の何かがお気に召さぬようならば、御前より姿をくらまし、二度と能り越さぬ覚悟にござる」


目から色のない血を流し、幸村は切れた口を舐めた。まるで鼻から上と下が別物のようだった。声は淀みなく、目はそらされたまま。政宗の拳は疾うに緩んでいたが、幸村に触ろうという気は起きなかった。
そうだ彼は武士なのだ。同情を施されることを潔しとしないのは、自分と同じなのだ。


「幸村、」
「我が覚悟、如何がか」


ゆきむら。
政宗は答えるのを拒んだ。代わりにひとつ、色の抜けた血を流した。