信じるということは、総じてこういうことである。相手に裏切られても良い、と。




*




真田幸村は足音も荒く、床板を足の底で叩きながら歩いた。どん、どん、どん、どん、ずかずかずかずか。それだけでも彼が不機嫌であることは明白であったが、いつもは少なからずも眉間に皺など寄せて、屋敷内をぴりぴりした空気で満たすことなど珍しい(彼の目附の忍が、 「もう、鍛練の後で服脱ぎ散らかしたまんまにしないでよね!」 と言うのはしょっちゅうだ)。それほどに、幸村の機嫌は傾いているのだ。


「あらあら幸村様、どうかなさったのですか」
「ん?うむ、大事ない」
「そのような険しいお顔で大事ないと言われても私どもにはそうは見えませんよ」


幸村は苦笑いを漏らし、ちょっとなと女中を交した。慶次が見ていたらどう思うだろう。古参で幸村が改名する以前からの付き合いの前に、日頃騒ぐ概念は、彼女に当てはまらないと見える。彼は 「ンなの屁理屈じゃない」 と顔をしかめるだろうけれども。


「誰ぞお探しにござりまするか?あ、佐助様なればお館様からお呼びがかかって今は甲府におられると存じていますが」
「知っておる。それより、暫く空ける。明朝には戻ってこよう。もし佐助の奴が甲府より戻ってきたら、その旨を伝えておいてくれまいか?」
「構いませぬが、幸村様はどちらへ?」
「知人のところだ」


一息に馬へ跨り、手綱を握って見送りにきた女中を振り返って、雄々しく手を挙げて見せる。


「案ずるな。死んで戻ってくるということはなかろう」
「そんなことになりましたら、我らは佐助様に殺されてしまいまする」


女中はころころ鈴を転がすように笑い、深々と頭を下げた。幸村は馬を駆り出した。




*




いつもなら町中の茶屋にでも待たせているが、今日に限って馬で行くような険しい山道の先で、相手は馬を停めていた。


「政宗殿!」
「ん、嗚呼、アンタか」
「む、某の他に誰か待たれてる方がおられるので?」
「Ah…気にするな」


背中を枝の張り出した幹に器用に預け、しかし政宗は幸村を振り返ることはしないし、幸村も無躾な政宗のその態度にはもう慣れ果てていた。馬から降りながら、幸村は、政宗が無粋な六本もの刀を差していることに気が付いた。僅かに目を剣呑にさせ、幸村は政宗に歩み寄るのを止めた。


「…腰の刀はまさかに飾りではあるまい?それ故町中を避けたのでござるな」
「Ah−ha!町の連中に騒がれて収拾つけんのはアンタの部下だろう?協力してやってんだぜ」
「それは重畳。なれど、そなたが刀を持ってこなければ、さような気遣いも無用と存じまするが」


理由をお聞かせ願えますかと鋭く問われて尚、政宗は歯牙にもかけない様子で漸く幸村に向き合う。その向こうの暗い森の中で、もう一頭の馬が微かにいなないたのがわかった。


「…此度は片倉殿もおいでか」
「……………」


幸村の視線の先を見遣り、政宗は軽く頷く。行き先を尋ねれば、そんなに同盟国が信用できねぇか、と逆に揚げ足をとられてしまう始末。話術に聡くない故にもどかしげに身動ぐ幸村を、怪訝そうに政宗は見た。


「Hey、出会い頭に刀持ってただけで喚いたり、やけに今日は不機嫌じゃねぇか」


政宗の言葉に幸村は不満顔で唇を突き出し、ありありと反抗した。彼の高圧的な物言いに思うところでもあるのだろう。


「…そなたのせいではござらぬ。気を悪くなされたのなら申し訳ない」


つん、と顎を反らし、幸村は政宗の失笑を買った。


「何だぁ?随分風当たりが厳しいじゃねぇかよ?」
「そなたが気にすることに値しませぬ。ただ、そなたと会う前に客人を相手取りまして。…どうか笑わないで下され」
「そりゃ、約束はできねぇがよ…」
「ならば某貝になりまする。これについては如何に政宗殿が今後問われようとも、一切、金輪際、何も答えぬ所存にござる」
「Okay−Okay、わかったよ!笑わねぇ」


幸村は胡乱気に政宗を見たが、流石に埒が明かないと感じたのか、短くため息を吐いてぽつと呟いた。


「某、重きを置かれ、武人の基である剣術が、苦手というか、どうにも不得手でござる」
「 ? 」
「情けない話でござるが某、戦以前に槍一辺倒の芸のないつまらない男でありまして」


本当にそんな奴なら、俺とタメ張んねぇよという政宗の茶々に、話の腰を折られた幸村はぷく、と頬を膨らませた。その子供染みた所為に、お前本当に武人か、と呆れた顔で改めて問う政宗にこそ問いたい。話の途中でつまらない横槍を入れて邪魔することは武士の恥じたるものではないのか。


「それを客人に揶揄され、自分ではわかってはいるもののやはり指摘されるとむかっ腹を立てておりました。お門違いも良いところでござるが、このような失態、やはり政宗殿にお話すべきではなかった」


悲しそうに首を振る幸村。政宗は珍しく気落ちしている幸村を、面白そうなものとでもいうように見た。


「得物を刀に限ってアンタと俺、じゃあやっぱり俺が勝つんだろうな」
「そもそも使い慣れているか否かでは全く違いまする。政宗殿は刀の勝手をわからぬ某を手討ちなさるおつもりか」


つい、と恨めしげな目をやれば、戦に卑怯も糞もあったもんじゃねぇと政宗に睨まれてしまった。確かに一見卑怯に見える策を戦法と宣って実践するのは幸村の尊敬する主と変わらない。しかし盲ている幸村は何故か政宗に対する不満だけが沸き起こる。


「安心しろよ。俺はつまらねぇ戦けしかけるほど愚かじゃねぇ。アンタとは、手前の得物でやってもらうさ。You see?」
「南蛮語はようわからぬが…」


力強く幸村は頷いた。


「手合わせなればいつでもお付き合い致しますぞ」
「Ah…俺としちゃあ真剣でやりたいんだがな」
「それでは戦になってしまいまする。お館様との条約をお忘れになられたか」


政宗はとんでもないと首を振った。


「、にしてもアンタは口開きゃあ信玄公のことばかりだな」
「お館様は某の師であり、さしでがましくも父と思うておりまする」
「実の父はどうした」
「死に逝きまいてござる」


その程度の生い立ちなど今日びさして珍しくもない。政宗だってやむなく己の父を射殺している。


「某が幼い頃だった故、何かと覚えてるものも限れておりまするが、しかし某はあの人を好いておりました」
「Han…」


暫く風が流れた。さやさや、さらさら、毛先を僅かに揺らす程度だったけれど、日陰では思いの外、涼となる。幸村は火照ったため息を細々と吐いた。馬のいななきが重なる。


「…戦が、絶えない世に思えねぇな」
「実に。今日は殊更良き日にござる」
「アンタにとっちゃ、つまらねぇだろ」
「そのお言葉、そっくりそのままそなたにお返し申し上げる」


政宗はにこりと笑った。爽やかな歳相応の笑みとは裏腹に、その胸の裡では獣が如き性が飢えている。幸村は微笑んだ。


「条約なんか締結しなければ良かったな」
「全く」


その言葉が如何に国主として吐いてはならないかくらいは幸村も弁えている。しかし信玄の意向があるとはいえ、彼の部下ではないのに腹の内を押し殺し、諫言を言う理性は幸村にはなかった。
幸村は包み隠さず、小さく頷いた。


「ちくしょう、平和だな…」


見上げた先の空を名も知らぬ鳥が駆けていった。それだけが戦人の思いを知っている。




あるべきところにある裏切りに
thanx;夜明けの口笛吹き