まだ言わない。いつ散るかはわからないが、今は必要ない。もしも間に合わなかったのなら、死に際に後悔してやるだけだ。あれに知らされることが、もうないのなら、それは不幸!そう笑うより他はない。漠然とした意識の中で、あれを笑うより他ないのだ。
春雪
庭先の残り雪が土に染み込んでいく頃、簀をひたひたと歩いてみた。足の指がきりきり絞め上げられるような冬らしい痛みは、朝、起床してからずっと付き纏っている。炭火の火を桶に移し、周りよりは比較的暖かさを保ってはいるものの、時折吹き荒むつれない風には肩をすくめることを禁じ得ない。普段そこそこ露出した服を着ている癖に何をと専属の忍頭に呆れられそうだが、生憎体感温度の基準は人並みである。寒いものは寒いのだ。は、と息を吐くと、靄が空気を漂った。
手桶の中の火がぱちんと爆ぜる。足先の感覚が乏しくなってきた。腐って落ちてしまいそうだ。しかしそこから動くことはしない。
枯れて痩せ細った草木が庭にうつろう寂しさを助長させ、名残雪が溶けてでろんと水を垂れ流す。不規則に落ちるその水滴は獣嚇しの規則的なそれとはまた違った風流をそれとなく伝えてくるのだけれど、いまいち寒さに耐え、庭先にとどまってまで見るほどのものではないと思う。それなのに目が滴る雪融け水から放せない。
燻る火が小さくなった。
水が凍えた土に染み込む様を見て、氷解する己の何かを感じた。溶けた心はじわりと広がり、手元の火よりも中を暖かくした。ひたすらに、肌をじくじく刺す空気に晒され、頭が冴えてくると何故こんな寒いところで棒立ちになっているのだと我に帰る。
「旦那、朝餉の用意できたんだけど」
「ん、すまぬな」
「全くもう、女給が困るから朝食終わるまでふらふら出歩かないでよ」
曖昧に笑ってみせると、呆れたように、後で女給に叱られるんだねと言われた。けれど突き放すような冷たさはそこにはなく。果報者だと、思う。恵まれているとも。
雪融け水を振り返る。相変わらず水がぽたぽたと垂れている。山間から差す朝日で、今日中にはもう全て溶けてしまうだろう。それが酷く惜しまれた。少しずつ溶解して滴る水に、あんなに和むこともないだろうが。
「溶けないと良いな」
「雪のこと?それはちょっと無理でしょ。あそこ日当たり良いから」
胸中で夢を壊すようなことを、と悪態を吐き、素足で石畳に降りる。あ、こら、などと忍は言う。冷えた石の上から土に触る。土は、しゃり、と乾いた音を立てた。剥き出しの土も僅かに氷っている。何故だかそれが嬉しくて、掬った土を指で擦り潰した。
「旦那ぁ、飯冷めるぜー?」
「ん、今行く」
「ちゃんと手と足洗って下さいね」
雪の上に散る血は良い。土に染みてこびりついて腐臭を放つより先に、雪と共に蒸発する。天に昇る。雨となる。また、ここに戻ってくるまでには跡形もなくなっているだろう。そして命を育むように、雪なり雨なりと姿を変えて戻ってくるのだ。雪は、雨は、良い。
「独りはさみしいからな」
「何か言った?」
「何も」
紛らわしてくれる。ぼんやりと意識を緩やかに誘ってくれる。よく幼い頃に眺めていた、雨に打たれる紫陽花。あれはどこにいったのだろうか。
「佐助、俺は雨も雪も好きだ」
「何、いきなり」
「何も!」
誰かに知っておいて欲しかった。いつか戦で死ぬのなら、少しでも存在した痕跡を残しておきたい。いたという痕跡を残すべきでないとする忍にしてみれば、背徳そのものなのだけれど。そう思って、何だか悪戯に気付かれていない子供のような気持ちがして、くすりと忍び笑った。忍は怪訝そうな顔をしてこちらを見る。
知っておいて欲しい。
団子が好きだとか、実は暗記は得意だとか、刀も体術もそこそこ会得しているだとか、和歌を作るのは不得手だとか、舞を教えてもらったことがあるとか(そして見事に失敗に終わった)、諸々。己を形作る諸々を、至るところに誰かに残しておきたかった。
「あれ、日が翳ってきたね。旦那のご所望通り、雪は残るかもよ?」
「ならば雪も降って欲しい」
「戦の戦局がわからなくなるじゃん。そういうときに動かされるのは俺達忍なんだよ。勘弁して欲しいね」
忍はとんでもないと首を横に振った。けれど、降って欲しかった。この我が儘ばかりは天候の気分頼みで、どうにもならないが。
奥州は甲斐より山が多い。この冷え込んだ空気なら、山の周り辺りから降り始めているかもしれない。白く城下を染めるのだろう。
ここでも見られるかもしれない、真白く降り積もる柔い雪に、顔を綻ばせる。音を食べる深雪が、早く来れば良い。
暦の上では疾うに春なのにとぼやく忍の後ろを見る。手桶の中身はすっかり冷たくなってきた。急に足元から寒さが迫り上がってきて、身震いする。
「佐助、寒い!」
「知りませんよ。自業自得でしょ。嗚呼寒い」
先に去ることはしなかった癖にとつつけば、主を寒い中置いて温めないだろともっともらしい理由が返ってくる。
笑う。わらう。息が靄になる。
もしも次、どこかで会ったのなら(それがどちらかの城下でも戦場だとしても)、奥州のあれにも言ってやろう。
雪が好きだ。雨も好きだ。
けれど、晴れの戦場で誰かと刀を合わせるのが、一番好きだ、と。恐らく自信過剰なあれは、その『誰か』は俺なんだろとふざけながらも自惚れるのだろう。そして、その自惚れは、得難く当たっているのだ。
その一言だけは死んでも言ってやるものか。自分だけ手玉に取られるのは悔しいではないか。ならば何にも答えずに笑ってはぐらかしてやる。いつか自分が死んだ後で、墓標代わりの槍を前にして、いついつまでも問掛ければ良い。あのときの答えはどちらだったんだと。
雪が溶ける。春になれば、暖かくなればその下に眠る土から、わっと芽吹きが起こるのだろうか。草花が誇り虫が這い、そして戦場に流された血を吸うのだろうか。嗚呼それはとても、
「あまり憂えたものではないな」
後に、あの雪のように冷たくなったら土に溶けるであろう自分の体が、酷く浚泄されたもののような気がした。あの男は、こんな馬鹿げた考えを、笑い飛ばしてその一切を否定してくれるのであろう。
そうであることを切に願って幸村は、後ろで呼んでいる忍に応え、手桶の中身を引っくり返した。炭で雪が黒く濁った。