こんなののために行動したわけではない。
両者両様に、やけに苦々しい思いを噛み締めながら、互いの顔を眺めていた。




零れ落ちた剥落の薄氷




佐助は盆に乗せた茶を、成る丈音の無いように卓へ置いた。しかし、忍であれども佐助も人間であるので、完全に音を消し去るなんて所業は無理難題で。しかも卓を挟んで向かい合う彼らは、若くとも名のある武人。張り詰めた空気の中、幽かに響いた湯呑の、卓を叩く音に二人は佐助の方を見た。内心、勘弁してくれよと嘆くのを余所に、苦笑を浮かべ、 「忍の使い方、間違ってなぁい?」 と主を茶化すのでいっぱいいっぱいなのである。
そもそも、何でこうなったのかは少しばかり時間を溯らなければならない。
今朝、いやさ、日が昇るを待たずにやってきた奥州筆頭の伊達政宗は、和睦という土産を持って信玄の屋敷を訪った。勿論、和睦を提案する側にとって有利な条件で調印できる事例の少ないことを、最早一国一城の主として無視できなくなった、この伊達がわからないはずもないにも関わらず、だ。互いの戦も近頃数を数えられる程度で、諸国との小競り合いも大人しい今、どちらともなく戦力の貧窮を来している事情に悩まされているのでもない。将来を見越した和睦以外に、伊達にとっては価値の低い提案である。
佐助は不思議でならなかった。
甲斐と奥州を巻き込んだ戦を覚悟はしていても(そしてその心当たりを弁えても)、無価値に等しい和睦に踏み切った伊達の魂胆が読めないのだ。


「佐助、ご苦労」
「はいはい、じゃあ邪魔しましたね」
「…? 下がれとは言ってないぞ」


調印して間も無く、主を元敵将と二人きりにさせるのは護衛を遣わされた佐助にとって落ち度としか言い様がないが、けれど佐助はこの空間にいたくはなかった。とばっちりを食らうのはごめんだと、口には出さずに伊達を尻目で見る。…なんか凄い目で睨まれてるんだけど、俺様!
これもわからないことのひとつ。
実は一昨日の夜から、佐助は単独で奥州の城へ忍んでいた。厳重この上ない警備をこそこそと鼠のように掻い潜り、寝室まで忍び込んでいたのである。同じく伊達が抱える黒頭巾の者らに所在を掴ませなかったのは、ひとえに佐助の純粋な能力といってはばからないのだが、もしも伊達に知れているのなら、主を好敵手視しているこの男のことである、意気揚揚と佐助が奥州に忍んだことを大義名分に掲げ、甲斐へと攻め込んでも良さそうなのだが。


「ここにおれば良かろう、な」
「や、でも伊達さん直々のお出ましなんだから、旦那と積もる話でもあるんでしょ?」
「…伊達殿?」
「……俺は構わねぇぜ」


佐助の同席を、思いきり気にしているような目で言われても、佐助が居た堪れなくなるだけだ。そして伊達の別意も、幸村は知ってか知らずか取り合わない。
かくて佐助は泣く泣く幸村の後ろで片膝をついた。
実は佐助は、伊達の臥所で、とある南蛮渡来の香炉を炊き熾していた。無色無臭、けれど嗅がせた人間がどんな感情であれ、一番強い思いを馳せている人間の印象を悪くするだの何だのと眉唾ものの煽りを掲げていた香炉である。普段の現実主義な佐助は、そんな夢みたいな香炉なんかあるわけないじゃんと鼻で笑い飛ばして過ぎ去っていくのだが、この伊達を筆頭に、近頃幸村に余計なことを吹き込みまくる五月蝿い輩の近辺への続出が絶えないことにそろそろ胃の腑が捻じ切れそうなので、香炉の外見を象った藁に縋りついたのだけれど、こんな結果は予測も予想もできなかった。ていうか、期待したのと真逆の結果なんて悲し過ぎる。


「どうした佐助。はばかりか?」
「いや、ちょっと修行不足だな、と思って」
「そうか。なら、某と共にお館様のご教授を受けてみるか?」
「要らない」


不満そうな幸村は、けれどどこまでも目出度いと思う。伊達の今にも抜刀し兼ねない危ない気配を呑んだ痛々しい視線の理由に、見当がついたのだ。
こいつも前田慶次と一緒かよ!


「して伊達殿、此度の調印後、お館様が誘われた甲斐の案内を蹴ってまでに某の屋敷へ来られたとあれば、それほどの理由があって然りと考えて宜しいか」
「…無礼は諾意の上だ」


幸村の並々ならぬ、信玄への敬愛振りは刀を合わせた相手は当然、いまだ見ぬ他国にも知られているらしい。佐助はそれに耳を傾けただけだからはっきりとは知らないが、もしそうなら、幸村の変に細かい情報は嬉しくないことに、他国を一人歩きしていることになる。強ち外れていないことがまた痛い。
伊達も、それに関してやや不機嫌な幸村に対して物腰を和らげている。


「なればお伺いしましょうぞ。此度のご用件は、平素の酔狂ではないことを願い申す」
「随分moodが斜めだな」
「……」


moodがわからないのか、諭されたような気分になったのか(恐らく前者)、幸村は僅かに視線を伊達の肩辺りに逸らして唇を尖らせた。


「それで、某に何用でござる」
「アンタを貰い受けにきた」
「伊達に下れということならば、初めて刀を合わせた日にも断りを入れたはず。某はニ君に仕える気も、お館様以外の主を以後仰ぐ気も毛頭ありませぬ。諦めて下され」


いくらか耳にした言葉とはいえ、佐助は幸村の赤心には感嘆せざるを得なかった。誰が間者として紛れ、誰が裏切り、誰を信じて良いかわからないこの乱世、それでいて変わらず忠誠心を唱える幸村は、確かに味方にすれば信頼の置ける武将にもなろう。また、二足草鞋のできない不器用な性格が幸村自身を救ったか。一時期、親を殺された恨みを抱えているのではないかと疑ってかかった当時の信玄の部下に、何度詰問をされたか、そのときの幸村の隠れた憔悴には佐助も幼いながらに憐れみを覚えた。


「Ummm,俺が言いたいことはそうじゃないんだがな…」
「 ? 伊達殿の言葉はいつも迂回してまするな」


僅かに伊達の矜持が傷ついたのは言うを待たない。


「Han,俺はアンタに惚れたんだって言ってんだよ」
「…惚れた晴れたは勝手がわからぬので嫌いでござる。全く、慶次殿に次いで伊達殿までもが某を馬鹿にされるのか」
「違ぇって言ってんだろ!わざとかアンタの無知振りは!」
「む、無知!何と心外極まりないでござる!伊達殿なんてもう知りませぬ!」


憤怒に顔を紅潮させ、幸村はばたばたと騒がしく退室した。伊達に小難しい話を振られ続け、子供のような癇癪が溜まって爆発したのだろう。それではあまりに投げ遣りで、あまりに無責任ではないか。佐助も伊達も暫く唖然としていた。


「…ちっ、出直してくるぜ。おい忍、幸村の取り成しちゃんとしとけよ」


そこまで伊達を義理立ててやる必要は全くないが、あれが一介の武将かよ、とか、俺なんであいつに惚れたのかな、とか、人の視線もはばからずに呟く伊達には不本意ながら不憫さを禁じ得ない。どちらかというと、佐助の理解は伊達に近いのだ。誰かが調子に乗るから言わないけれど。
佐助はそっと部屋を出て、幸村を探した。寝室に篭った幸村を探し出すのはそう苦にならず、佐助は柱に背を預けて頬を膨らませた幸村を見下ろした。


「旦那」
「…伊達殿を見損なった」
「……」
「俺が見初めた伊達政宗は、あんな男だったのか」
「………旦那」
「自分が不甲斐ない」


こいつもこいつで妙な勘違いをしているし。
佐助は嘆息した。どちらにも等しく言えるのは、ただ、お互いが惚れて認め合った戦いの中にあった男は、休戦の和睦を執り行った今となっては、もう直接見られることも、もう一度刀を合わせることもできなくなったということだけだというのに。