「貴殿の掌には、何もない」


言われた言葉の意味が、意図が、わからなかった。とにかくその知ったか振りな物言いに訳もなく腹が立って、前を見た。荒唐と横たえられた闇の中で、ぼんやりと浮かぶのは覚えのある真紅。その姿を認め、政宗は眉を寄せた。


「両手一杯に刀を携え、何を取ろうと言うのだ。もう、何かを持てる余裕もない癖に、貴殿は何を得て、何を掴もうとしているのだ?」


政宗は牙を剥き、天下だと即答した。途端に哄笑が鳴り響く。


「それを得て如何する。神ではない貴殿の、隙間のない手に持てたとて、中身などたかが幾許か知れている。そんなもの、取るためのものではなかろう」
「Ha.だったら何だ」


こつりと足音がした。変わらない赤の装束を身につけた幸村が目の前に来る。彼の姿は見えるというのに、政宗の方からはその表情がどうなっているのか知る術はない。


「貴殿、何故天下を欲す」
「……」
「人一人の手に治まるものではない」
「なら手前の主は何だ」


神だとでも言うのかと嘲ると、幸村は、それも良いかもしれぬと言った。
幸村の顔を隠していた闇が切れる。少しだけ見えた幸村は、今まで政宗に見せたことのない顔をしていた。無表情の割に穏やかなそれに、政宗は、全身の毛穴が一斉に開く奇妙な感覚を確かに感じた。
慄きと同時に感じたそれは、政宗の中で静かに弾けた。




手から溢れて。




気配に目覚めると、薄暗な中で自分を見下ろす影がいた。


「如何した佐助」
「んーん。起こしちゃったみたいだね。ごめん」


幸村は半身を起こし、未だ佐助が服をくつろげていないことに気付いた。服を摘まんでその冷たさを確かめる。


「冷たいな。どこに行ってた?」
「奥州伊達政宗の所」
「夜襲か?、の割には血の臭いがしない」
「俺様だって旦那や大将に頼まれない以上、あれの暗殺なんて御免被るね」
「なら」
「若葉を摘みに、行ったのさ」


勝手な行動をして士気を下げるようなことにならなければ良いと、幸村は敢えて言及しなかった。習慣で気配に敏感になっているとはいえ、戦や鍛錬で疲れた体は睡眠を必要としている。
起こしていた体を横にすると、視界の中に天井を背にした佐助が逆さで飛び込んでくる。


「旦那」
「何だ」
「人の中から出て来たのに、感情って奴はこうも人の制御が利かないねぇ」
「…それは俺への当て擦りか」
「とんでもない。けど、それで盲目になる奴もいるってことさ」
「…?」
「慕情とか、ね」


お前も慶次殿に感化されたか、と、幸村は目を閉じる。佐助は一言、おやすみ、と呟いた。幸村はひらりと手を振って応える。


「ごめんね?旦那」
「良い。起こしたことも、何をしてきたのかも問わん。目を瞑ってやる」
「…有難う」


悪者にしちゃって、ごめん。
密やかな佐助の懺悔は、幸い哉、幸村には聞えなかった。




*




夢を見た。
一面草原で、しかしどこかの合戦場であることは、時折聞えてくる法螺貝と喚声で知れた。いつの間にか朱槍が手元にある。しっくり馴染むそれに幸村は酷く昂揚した。
敵大将はどこだ!この幸村が討ってやる!弓兵や雑兵を撃ち、名のある武将の首を掲げる達成感は、得も言えぬものだった。幼少の頃より他国に見聞と称して人質に出されていた幸村は、役割をなくすことが酷く恐ろしいことのように思えただけに、名を挙げ、信玄の上洛の足掛かりになることが殊更嬉しい。
雑兵の合間を縫って真っ直ぐこちらに向かってくる、六本の刀を持った好敵手の姿に、幸村は総毛立つ。
火花が爆ぜる。巻き添えを食った自軍の兵が吹き飛ぶ。いつぞや訓練に顔を見せた者だ。嗚呼可哀想なことをした。
閃光が散り、刃が合わさる固い音がするというのに、振動が全く伝わってこない。 これは夢かと認識したとき、ふと瞼の下に光を見た。それが、


「旦那」
「…朝か」
「お館様が、呼んでる。何でも奥州が休戦協定を求めている。だから相席しろってさ」
「こんな早朝に?」
「こんな、早朝に」


僅かに開けられた障子の隙間から入り込んでくる朝日を背に、佐助が幸村を見下ろしている。軽いデジャヴュを覚え、夢の中の光はこれかと目を眇めると、それを不服な顔ととったのか佐助は苦笑いした。仕様がない子、と如実に語るその様子に些か気を悪くした幸村は、立ち眩みを抑えて臥所を出る。井戸に釣瓶を落とし、頭から水を被った。水浸しの寝巻きに、また女給に叱られてしまうと顔をしかめた後、袖で拭いて脱ぎ捨てる。代わりに佐助が 「この寒い中よく裸でやってられるよ」 と寄越した装束で馬を駆けさせた。
佐助が後ろからちゃんとついてきていることは、何となくわかった。
信玄の別邸(誰だって単身で本城なぞに招かれたくはないだろう)にて、幸村は既に会合が行われていることを知った。


「では、調印の見届けは誰が致すのだ!」
「それならば山県殿が」
「むぅ…後れを取った!後でお館様に喝を入れて頂かねば」


空腹に付き合い、話の終わりを待つことにした。流石に話の最中で割り込み、場を濁す真ねなどすべきではないという分別は弁えている。別室で控え、佐助と協定のことを話した。


「何故今になって伊達殿は協定を乞われたのだろう?」
「さあね。旦那は不服かい?」


夢で見たあの臨場感は、筆舌に尽くし難い。惜しいとは思うが、幸村は首を横に振った。


「お館様の天下布武のためなれば」
「でも独眼竜と戦いたかったでしょ」
「無論。まだ決着がついていない。半可はいやだ」
「気持ちはわからなくもないけどね」


佐助は肩を竦める。その関心の無さそうな態度に、幸村は今になって佐助が奥州で何をしてきたのか、知りたくなった。


「…今日の協定は、仕向けたものか?」
「まさか、俺様だって独眼竜の秋空みたいな思い振りなんか知るもんか」
「…お前、忍だろう」
「…何か忍に対する偏見に満ちてるね」


飄々とする佐助に幸村はじりじりと歯噛みした。相変わらず煙に巻くのが巧いようだ。そして幸村は、佐助のような駆け引きの上手さや巧みな話術は持ち合わせていない。


「くそぅ」
「はいはい、機嫌直してね?」


正座を崩す。楽な姿勢にして、庭に目を向ける。
今日は生憎の曇り空で、少し風が肌寒い。まだ微かに湿っている毛先を弄くりながら、冬に走る物悲しい庭を見た。
佐助の言葉を反芻する。


『人の中から出て来たのに、感情って奴はこうも人の制御が利かないねぇ』


全くその通りだ。自分の欠点を手酷く痛感する。
思えば慕情という恋とやらも、その類だ。幸村にとってそれが何か、説明に困る未踏の域だが、某前田の風来坊のはそれをとても良いものだと言う。心を暖かくすることのできるものだと。人は良くも悪くも自他の気持ちに振りまわされる。それを間近で感じることができるのが、件の風来坊だ(あまり良いとは思えないけれど)。
突き詰めれば天下取りも、誰かが矮小な一国の主では足りないと思って始めたものではないだろうか。長い長い時の土台は血で真っ赤で、悲しいかな、幸村も性に溺れた真っ只中である。いつの間にか皆、天下取りという言葉に踊らされている。ならば天下など、人の手に余る荷物ではなかろうか。
考えて幸村は自刃したくなった。
自分の、延いては信玄の思想を真っ向から否定するなど、とんでもない。
幸村はふいと部屋の中を見るが、佐助の姿はない。


「佐助は、無心になれたらと思うか?」
「そりゃあ、こんな仕事してますから。昔はよく嫌になったよ」


耳朶に馴染んだ姿無き声が降る。幸村はそのことに安堵した。


「佐助も人間だな」
「やめてよ旦那。そんなこと言われたら忍失格じゃないの」


幸村は笑った。佐助が、嬉しそうに顔を歪めたのがわかったからである。


「何を言う。佐助は優秀な忍だぞ」
「それならもう少し給金上げて欲しいな」


どやどやと、外が騒がしくなった。幸村は飛び勇んで走っていく。


「うぉ館さむぁぁああ!遅れ馳せ参じたこの不肖幸村を叱って下されぇぇええええ!!」




−犯行声明−



いや、まさかあの独眼竜が旦那にあれほど入れ込むなんて思わなかったもんですからね。旦那には悪いけど印象を悪くすれば歯止めになると思ったんだけど詰めが甘かったのか、裏目に出ちゃって…余計拍車がかかっちゃった。あれが最大の誤算ですね。ちくしょう、あの香炉高かったのに。
次から次へと旦那に変なこと吹き込む輩が増えるにつれ、俺の悩みも増えるわけです。勘弁して欲しいですね、もう。
げ、独眼竜の奴また来てる。ちょっと門前払いしてきますから、席を外させて下さい。(一部音声を変えてお送りしております)