My dear Mr.enemy 01

Die Person, die ins Meer untergeht, merkt das Gebiet vom Meer nicht.(海に沈む者は海の広さを知らない)

 


 目覚めは最悪だった。
 体が凝り固まっている。全身の筋肉が死んでいた。下はマットレスすらない診察台で金属のパイプがむき出しになっている。道理で。
 その個室には、自分以外に誰もいなかった。よくわからない機械やパイプが入り組んだ、とても冷たい空気の部屋であった。この部屋を観察できるように一面の壁を覆うガラスの向こうにも、人の気配はない。


「何だ、ここは…」


 ここに連れてこられたときの記憶は曖昧だ。どこか統率のとれた吸血鬼が群れを成して街に大挙してきて、人間なりの知恵を使ってそれらに対抗していたのは覚えている。自分も剣を取って彼らに斬り込んだのだから。しかしそこからぷっつりと記憶がない。それなら自分は捕虜になったのか。だとしたら何故生かされている。吸血鬼に能力で劣っている人間を生かしておいて、利点なんかないだろうに。
 強張っている筋肉をゆっくり伸ばしながら体を起こす。上半身は裸だが、下半身はちゃんとズボンを穿いていた。上着とインナーは台の下でぐしゃぐしゃに丸まっていて、拾い上げると、千切れた紙切れがひとかけ落ちる。


『 目が覚めたか?
  自分の名前は覚えてるか?
  体に慣れたら歯を触ってみな 』


「何だ…?」


 気さくな言い様なのに、内容は決して穏やかなものではない。
 自分の名前など忘れるわけなかろう。内心嫌な予感で震えそうになりながら、舌で歯列をなぞってゆくと、ちょうど犬歯のあたりでこつんと止まった。恐る恐る撫で回すその歯は、先が細くすぼまり、恐ろしく鋭い。まるで何かに突き立てるべく変質したような。
 改めて手に持った紙切れを見ると、下の方に


『  おめでとう  お前はもう人間じゃない  』


 目の前が真っ赤になり、思わず紙を握り潰す。掌が熱い。
 ふざけるな。人を勝手に人外にしやがって。
 ガラスの向こうにこの紙を書いたものでもいるかのように、苛立ちで丸めた紙のボールを投げつける。ガラスに当たった紙は跳ね返り、一転二転と静かに床で転がった。それを睨んでいると、ぶすぶすと先から煙をあげて燻り始め、次第に火玉になって燃えだした。
 轟々燃え盛る火玉を眺めながら呟く。


「俺の名前、は、スコール…スコール・レオンハート」


 大丈夫。覚えてる。
 目を閉じてもう一度囁く。スコール・レオンハート。俺の名前。
 紙が燃え尽き、再び目を開ける頃には、スコールの心はずいぶん落ち着きを取り戻していた。
 スコールは元々、吸血鬼というものに対する差別観が驚くほど薄い。それは吸血鬼の知識がほとんどないからであり、同時に恐ろしいものは何も吸血鬼ばかりではないのだと知っているからだ。その考えはこの世界では大変珍しいのだが、それすらスコールは知り様がない。
 建設的とも侮りともとれるが、少なくともいきなり吸血鬼にされたとしても、今の自分を以前と変わらない自分だと確信が持てるのなら別段取り乱す必要はないと、スコールはそう考えていた。
 次いでスコールは、途轍もなく冷静に、今後の自分の身の振り方についてを考えだした。
 これからどうするのか、ここに何があるのかを知り、自分を吸血鬼にした者から何らかの話を聞き出さないことには現状把握が始まらない。持っている情報量が圧倒的に少ないのだ。その情報量を補うには、こんな個室にひっこんだままではいけないに決まっている。スコールは部屋の隅にひっそりと存在している扉を見据えた。
 スコールの、十七という年齢に見合わない沈着な性分は、その生い立ちが大きく関わっている。
 スコールには両親はいないが、姉が一人いる。その姉は、普通なら人間が持ち得ることのない異能を持った人間であるらしい。周囲の人間の中には彼女を密かに<魔女>と呼び、同じ名を持つ吸血鬼の血統とみなす者もいたが、スコールが知る限りでは姉は一度も人の血を啜ったことなどないし、人間を超えたその力を使ったこともない、弟にとても優しい普通の女性だった。周りの人間からの冷遇に笑って立ち向かうような、スコールにはない豪胆さは見習うべきだと今でも羨ましく思う。何もかも見透かしたような眼差しや人離れした雰囲気が<魔女>と言わしめるものだとしても、スコールにとって彼女は己の支えとし、支えるべき唯一人の家族なのだ。
 そこでスコールははっとする。
 姉は今、どうしているだろう。
 無事でいてくれればよいのだが。攻めてきた吸血鬼を先導したと謂れのない誹謗を受けてやしないといいのだが。せめて、自分のように意思を無視され吸血鬼になってないといいのだが。
 いても立ってもいられず、手早くシャツとジャケットを羽織って扉を蹴破り、弾丸のように飛び出す。かたまっている筋肉を無理に目覚めさせ、動かすのは、ひどく痛みを伴った。滞っていた血の流れが急に廻りだすと、心臓や血管が風船のように膨らんでゆく。
 痛い。生きている痛みである。吸血鬼も所詮は限りある命を持つ生き物なのだ。
 平気だ、殺せる。邪魔立てするのなら、吸血鬼だって。
 体を廻る血の流れが、人間だったときよりもより密に感じられる。耳が拾い様のない音まで拾う。鼻が空気の流れを読む。疾駆する体は風に近い存在になった。
 既に己は、人間を辞めた体を受け入れ、自分のものとする覚悟があるのだ。
 やはり冷静に自分の心情を読み解きながら、スコールは姉の名を叫んだ。
 それは獣の咆哮のようだった。

 

 

 

 

 結局のところ、その建物の中にいたのは、死なない程度に生かされていた人間と、同族に見える者たちだった。人間も、人間よりはるかに頑丈なはずの吸血鬼も、等しく死んだように体を投げ出しているのを苦々しい思いで見ながら姉の姿を探したが、いくら群んでいる彼らの中を探しても、彼女を見つけることはできなかった。もしかしたら自分と同じように別室に隔離されているのではと部屋を虱潰しに覗いてみたが、自分が寝ていたものと同じ素っ気ない寝台の上で干乾びている人間だか吸血鬼だかを見つけ、空寒い思いに駆られたものだ。
 逃げるようにして建物を出て(誰にも見咎められなかったのが殊更に不気味だった)、そこが西の大陸だと知るのに数週間もかかり、姉がそこにいるようにと祈る気持ちで故郷に帰るのには、二月半もかかってしまった。
 そのとき初めてスコールは、吸血鬼に対する人間の恐怖心の大きさを知った。
 最寄りの町で人に地図を求めようと近寄れば、すぐさま跪いて命を乞われ、またある者は卑屈に媚び、ある者は焦点の合わない目でスコールに血を吸われることを懇願してきた。皆が皆、スコールに対して良い感情を向けてはいない。
 悲嘆や保身や欲望の視線にうんざりしたスコールは、ならば吸血鬼にと情報を求めたが、そこでも自分の吸血鬼に関する無知さを手ひどいしっぺ返しと共に痛感することとなる。
 初めに交わした二、三言で、スコールは吸血鬼が彼らの血脈に過剰なほどの誇りを持っていることを知り、また、吸血鬼としての自覚や矜持、仰ぐべき『父』あるいは『母』を持たないスコールのような存在は、断絶血統(ブラッド・オーファン)という蔑称つきで嘲笑されて然るべきなのだと知らされた。『父』もしくは『母』の名は? どこに連なる血統だ? 転化してどれだけの時間が過ぎた? 順を追ってゆく質問に 「わからない」 と答えるごとに、相手の顔をキャンバスにして嘲りの色が広がってゆくのは、譬えようのない屈辱と羞恥を誘った。吸血鬼という種族は、まるで絶えて久しい人間でいうところの貴族社会とよほど似通った体系をしているようだ。
 閑話休題。
 ほうぼうの体で帰ってきたスコールが見たのは、崩れた家の瓦礫とそれを棲家にしている浮浪者だけで成り立つ、最早街とは呼べない土地だった。覚束ない足取りのスコールを迎えてくれる姉の姿は当たり前になく、浮浪者はいつ死んだってかまやしないと言わんばかりの荒みよう。
 姉の居場所の心当たりがとうとう途絶え、呆然と座り込んだスコールの背中に、ひょんな若い男の声がかかった。


「何か、お探しかい?」


 放っておいてくれと剣呑な目で睨んだスコールは、すぐに逸らすつもりだった目線を、改めてその男に固定した。
 柔らかな笑みを浮かべる男は、この荒れ果ててしまった街の雰囲気とどこまでも噛みあわない。格好は、他の者に比べればずいぶん清潔だがやはり小汚く、しかし良いものを食べて暮らしてきたと一目でわかる白い肌や艶やかにうねる銀の髪、上品な表情は、場末の者とは明らかにその様相が異なる。何より、こんな男、以前はこの街にいなかった。


「誰だ、あんた」


 警戒もあらわに刺々しい声を出すスコールに、男は苦笑した。


「急に声をかけて驚かせちゃったかな。僕はセシル。少し前からここにきて、絵を描いてるんだ」
「絵?」
「うん。あんまり上手いとは胸を張って言えないんだけど、良かったら見るかい?」


 木炭で黒ずんだ手が差し出してきたクロッキー帳を受け取り、適当なページを開く。絵心のないスコールが評すのはおこがましい気もするが、確かに上手くはない。全くの下手でもないが。
 見たことのない村や町の絵に自分の街を重ねて郷愁が湧きだした頃、それを振り切るようにぱらぱらと捲ったクロッキー帳のうち、ふと写実的だった今までの絵と違うページを見つけ、手を止めた。
 一本の木炭を丸々使い込んだような、ほぼ真っ黒になったページ。中央の唯一白い部分には、甲冑を着込んで剣を捧げる騎士と、それに寄り添い騎士の首筋に頭を寄せる美しい女の絵。
 背景すら塗り潰されるなんて、ずいぶん的を絞りこんだ変わった絵だなと端的に思いながらページを捲ろうとして、しかし思い止まった。
 女の口から、鋭い犬歯が見えている。吸血鬼たる証の、スコールも有している長い牙。よく見れば、女の瞳には縦線が一本乱雑に描き加えられている。
 女の絵にスコールの目がとまっているのに気づいたらしいセシルは、にこりと笑ってスコールの手からクロッキー帳を取り上げた。


「人って、伝説が大好きだよね」


 そう言ってクロッキー帳を胸に抱えるセシルは、スコールの細い瞳孔を見て緩やかに小首を傾げた。







(091120)