Ich schmecke Verzweiflung mit einen Augen dieses Mannes.(私はその男の視線ひとつで絶望を味わう)
森の中に引っ込んで暮らしていたら、その森の住人として、子供が増えた。人の手が入らない、動物たちが弱肉強食の縮図を密に原始的に日常的に行うこの森で、社会化に特化した人間の、しかも幼い子供が生きてゆくのは途方もないことだ。そのうちどこぞで骨か食べ残しとして転がるだろうと軽く見ていた。
しかし、予想に反して、子供はなかなか逞しかった。
見た目の年齢にそぐわぬ博識で、火を絶やさず夜を過ごしたり、大きな音を立てながら移動したり、懐に護身用のナイフなんかを忍ばせているらしかった。子供は大人顔負けの度胸で、弱小な動物のように背を丸めて気配を押し殺す馬鹿な真似は決してしていない。人間の性質上、それを実行するのは難しいというのに、大したものだと感心もした。毎日寝床を変えるのには、さすがに眉をひそめたけれど。
この森は、大樹が多く鬱蒼としていて、日頃からあまり日が差さない。その環境は非常に助かる。日を浴びたらたちどころに溶けて干乾びてしまうこの身に、針葉樹の薄暗い木陰はとても馴染み、落ち着くものだ。しかし、人間がこんなところに長くいれば精神が侵されるというのに、なんと物好きな子供だろう。さっさと死ぬか余所へ行けばいいものを。
「あ、あの!」
午睡に浸ろうと瞑っていた目を開けて、眼下の木の根を見ると、件の子供がこちらを見上げていた。言葉が通じそうな外見をしている姿は他にないから、自分に何か用があるのだろう。この森を出る道を教えてくれという願いに限ってなら、叶えてやっても良いと思う。
「何だ」
「これ、そこで採ってきたんですけど」
子供は組んでいた腕を揺らした。その腕の中には、この森の数少ない恵みがある。一人で食べる分には少々多い。
「一緒に、食べませんか?」
「…………」
基本的に、この体は概ね丈夫だった。食事をある程度抜いたところで、空腹と本能的な衝動は理性で抑え込める。
ただ、純粋に興味が出た。この子供が、こんな苦しい環境に好き好んで留まり、強欲に独り占めすれば良い森の恵みを得体の知れないものに分け与えてまで食事の同席を誘う理由に。
枝から子供の傍らまで飛び降りて痩せた実をひとつ取ると、子供は安心したような顔で座り、自分も果実をかじる。
「ありがとうございます」
「……なぜあんたが礼を言う」
「三週間前、助けてくれたでしょう」
「三週間前…」
時間の概念が限りなく薄い故、よほど印象に残ったことでないと思い出せない。けれどそれくらい前のときに、確か珍しく森から出て、夜の荒野をのんべんだらりと散歩した気がする。
そうだ。近くの村で、吸血鬼になりたてで図に乗り、加減を知らない振る舞いをしていた馬鹿どもが目に障って、久しぶりに大立ち回りをしてしまったのだったか。その騒ぎに子供が巻き込まれていたのには気づかなかった。
きらきらと憧憬の目でこちらを見る子供に、何となく居た堪れない気分になる。助けるつもりはなかった。気づいていたとしても、機嫌が悪くてまとめて黙らせてしまっていたかもしれなかったのだ。胸糞の悪い思いをしたあのときのことは、あまり思い出したくない。
「礼ならこの実で十分だ。義理立てはもういらないぞ。村に帰れるなら帰った方がいい」
その言葉に、子供は俯いたものだ。
「僕が住んでたところは、もうないんです。吸血鬼に荒らされて…。あの村はたまたま行き倒れていた僕を拾ってくれた御者の人が寄る予定だった場所みたいで…」
その人がどうなったかも、知らないんです。
所在なさげな声に、呆れてしまう。何とも運が悪いものだ。
まあそれでも、どのみちあの村はじきに人がいなくなるだろう。荒くれな吸血鬼に目をつけられた土地に、長居するような人間は滅多にいない。
それでここを奇す辺にしていた己を頼りにしてきたのだろうか。だとすれば、とんでもなく面倒なことになったぞと、頭を掻く。
「吸血鬼なんて、どうしているんだろう……」
ぼそりと呟いた子供は、まるで葉の間に日差しを探すように宙を睨みつけているが、生憎ここは完全な陰になっている。その目にやり場のない憤りや憎しみが浮沈していて、思わず忙しく果実を咀嚼していた口を止めた。
吸血鬼(ブラックブラッド)。世に初めて出現した六人の始祖なる者から現在に至るまで脈々と継がれる血統の種族。所謂過去に伝説となっていた化け物のことである。いつ頃から世に出てきたのか、はたまたどうして存在し始めたのか、その出自はほとんど不明だ。しかし吸血鬼の血を飲めば吸血鬼になるという大層簡易な増殖法と、架空の化け物として扱われていた頃の特徴を多く継いでいることで、人からは畏怖の目を向けられることがある。たいていは同じ血統の者同士で徒党を組んで過ごすことが多いらしいが、他血統の者だろうと興味は全く湧かない。自分の関わりがないところで精々大人しくしていてくれればけっこう。
けれどこの子供は違うようだ。いつまでも受けた虐げに怯え、妬み、憎んでいるのだろう。
ため息を吐いていらえを返す。
「そう思うなら尚更、ここを出ていけ」
「どうして、」
「俺もあんたが嫌いな吸血鬼だからさ」
「あなたは大丈夫です」
子供はやけにはっきり断言した。
「あなたは、大丈夫です」
子供の目はひたすらこちらへまっすぐ向けられている。
自分が襲われない自信があるわけではない。信用できる確信もない故の恐れ。かつて吸血鬼に植えつけられた恐怖心。その同族を間近にしているという過去のトラウマ。こわい、こわいと内心で喚いているのが見てとれる。
再びため息が出た。
仮令この森に住み着いて吸血鬼から身を守ろうと画策しているのだとして、けれど人間に害があるのはそれだけではない。病や獣害、ちょっとのストレスで人間は簡単におっちぬ。この子供は、少し頭が良いだけで、それらをどう回避できるというのだろう。
本当に、外に出るとろくなことがない。
「…………ここにいたいというなら俺は止めない。けど、あんたの子守をする気はないぞ」
「はい」
口の中でごろついている種を吐き出す。ほとんど身がついてなかった果実だ。
それでも、この実をこぞって食べたがる動物は森によほど多くいる。実に飽き足らず、他者の肉を好むものも。
この子供がどのくらいで匙を投げるか、しばしの暇つぶしになるだろうか。
「僕はルーネスと言います。あなたは?」
「…クラウド・ストライフ…」
全く以て面倒なことになったものだ。いつ食い殺してしまうか知れない人間を身近なところに置く気になるなんて。
クラウドは鼻を鳴らして、自分の気まぐれさ加減を自嘲しながら子供の差し出す果実に歯を立てた。
クラウドは、自分が閉鎖的な環境を好み、それに対してのみかなり順応力が高いことを知っている。人間だった頃の名残かもしれないが、そんな昔の記憶をわざわざ掘り出して感傷的になることはほとんどない。今の自分は、太陽の下に飛び出して死ぬ勇気も、外の連中のように人とまじわる気力もなく、ただ緩やかに流れる時間に身を投げ出している怠惰な粗忽者だ。なかなか死なないしぶとい体は特にそれに適してしまっている。
何もかもが、面倒。
「クラウド、クラウドー!」
けれどこの騒がしい子供が傍に居着き始めてからは、そうも言ってられなくなった。こうして少し高い声で目覚めを余儀なくされ、体を起こすと子供は笑ってクラウドに寄ってくる。
一体どこから調達してくるのか、この森では実らない、水分をふんだんに含んで重たい南方の果実を差し出す子供、ルーネスは、いくら必要ないと断ってもクラウドの取り分をいつも持ってきては、クラウドが手をつけるまで自分は決して食べずに待っていた。諦めて果実を受け取りひとつを平らげると、ようやくルーネスもクラウドの横に座って食べ始める。
そのしつこさには辟易したが、それ以外は不用意に近づかず邪魔にならないので、扱いにまごついてしまう。
じゃくじゃく果実を食い漁るルーネスの、剥きだしの膝や肘を見て、ふと首を傾げた。はて、この子供がここに住み着いて、一体どれほど経っただろうか。邪魔な前髪は自分で切っているようだが、後ろの髪は見ていて鬱陶しいほどずいぶん長く、ふくらはぎや二の腕はちょっと鍛えただけじゃつかない筋肉がついている。
「…ルーネス」
「はい?」
「あんた、ここに来て何年になる?」
「うーん…二年くらいじゃないかな。よくわからないけど」
「二年…」
二週間かそこらのような気もする。
日付の感覚など、毎日朝が来て夜が来るだけのこの森ではすぐに埋没するものだ。よくわからないけどとこぼしたルーネスも、細かくは覚えていないのだろう。果実を貪る手を止めて、やはり首を傾げていた。
「そうか。急に訊いて悪かったな」
「いえ…」
「今度もし、森の外に行くのなら、髪を結う紐でも買ってくればいい。あんたの髪は広がって鬱陶しい」
そう言って懐から小銭を出すクラウドを、ルーネスは目を丸めて見た。大方死んだように何もせず生きているクラウドが金を持っているなんて考えもしなかったのだろう。果汁でべとついている小さな掌に押し付ければ、本物かどうか疑わしげにつついている。
金はいつの時代も要り様だ。小難しく先見の明に秀でたあの男は、金に代わるだろう物をそれなりにクラウドへ預けていった。使う機会などないに等しく手をつける予定もなかったが、手のかかる人間一人と共生していれば、それも仕方ない。
ルーネスのはねた前髪を何度か叩いて、さて一寝入りと立ち上がって種を適当に投げ捨てるクラウド。
「ま、待って」
「どうした」
「い、一緒に行って、欲しい…んだけど、駄目、です、か…」
これにはクラウドも渋面を作った。
子守をする気はないぞと告げ、威勢のよい返事を返された次の日から、確かにルーネスは自分で生きてゆくために必要なことは全て己の力で成し遂げていた。元々動物の習性を熟知していたのか、失敗や死にそうな目に遭いながら、何とか自分に必要な動物性たんぱく質を食い、雨露を溜めて飲み、だからこそおよそ二年間も餓死せず生きていられたのだろうが、人の行き交う町に行くのに、今更、付き添い? ホームシックでもあるまいに。
「もちろんクラウドが動きやすい時間でいいんだ!…無理にとは、言わないけど…」
クラウドは不機嫌にルーネスを見る。
自分に都合の良い時間帯に合わせるということは、まさに夜の真っ只中に出かけることになる。当然夜行性の吸血鬼も外出が増えることを、吸血鬼に対して未だに怯える子供が知らないはずがない。それとも人間の美徳にして愚昧な記憶の忘却とやらでもしたのだろうか。
いずれにせよ、返答は決まっている。
「悪いが一人で行ってくれ。俺は一言も外に行きたいとは言っていないし、あんたの保護者じゃない。外に行きたくないのならそれでかまわない。小銭はやる。ただその髪をどうにかしておいてくれ」
「う、ん…わかった。無理言ってごめんなさい……」
しょぼくれたルーネスは良心が痛むような消沈した姿だが、クラウドは自分こそ進退を慎重にすべきと考えている。こと賑やかな町ならば、人間にも吸血鬼にも己の姿を知られたくないし、知られない方が良い。
勝手ながら事情を話さないルーネスへは冷たいと思われるだろう。それも別にかまいやしない。
ただでさえ寿命が短い人間は、そのくせその心次第で寄りそう人間を目まぐるしく変える。たった一人に拘泥し続けるクラウドには真似ができない。ルーネスも、この先吸血鬼に怯えながら一人で生きていくことはできまい。人並みの人生というものに未練があるのなら、馴れあいなど以ての外だ。
まだ子供だなとルーネスを一瞥して、クラウドは森の奥にある自分の寝床へ足を向けた。