Es ist definitiv bei Nacht ein fliegender Vogel.(それはまさしく夜に飛ぶ鳥)
夜に浮かぶ町明かりは、今では恐怖でしかない。賑やかな夜の喧騒もすぐに消える儚いものだと、自分は知っている。
目の前でチョコボを駆るこの男は、年端もいかない自分がこんなことを考えていると知ったら、どんな顔をするだろう。荒んだことを言うな若いのに、と気さくな口調で、けど真剣に言うのだろうか。
炉端で倒れていた自分を、行く先の町で良いなら送ってやるよと拾ってくれたこの男と共にいるようになってちょうど五日。疲労困憊で話す気力もない自分に力強く話しかけてくれるこの男が、実はずいぶん若いのに、下手な大人よりも世渡りが上手いことを十分に理解できた頃だ。
幌馬車の幌から、酒屋の前で水と食料を譲り受けている男を眺める。
笑顔で言葉を酌み交わし、おまけにとぽんぽん何某かをもらう男の話術は、この先たった一人で生きてゆかねばならない自分が学ぶべきものを多く含んでいる。そう。自分はもう、庇護を与えてくれる親などいないのだ。
改めて認識し、立てた両膝の間に頭を埋めて、涙を堪えた。
思い出すのは血と殺戮に染め上げられた故郷。自ら仇に差し出す狂った人間たち。嘲笑いながら壊れた街を闊歩する、我が物顔の化け物ども。夜の賑わいは、知らないうちに叫喚へ変わっていた。それを思い出すだに今も恐ろしくなる。
「悪い、待たせたな」
「別に…」
投げてよこされた水筒の蓋をのろのろ開け、空を見上げれば冴え冴えと白く光る月。口をつけてゆっくり唇を潤わせながら嚥下する地下水の冷たさは、知らず上がっていた脈拍を少しずつ下げて行った。
「これから少し長くなるから、寝とけ。明日もたないぞー」
「いえ…」
あの日以来、まともに眠れない。いつの間にか眠っていても冷えた寝汗と共に体の痙攣で飛び起きる。空が明るくてもそれは同じだ。いつも、体が覚えている血肉の色を思い出しては、震えている。知りあいも友人も両親も見捨ててしまった自責の念かもしれない。それでも繰り返し見て気分が良くなるものではない。
「ふーん…寝といた方が良いと思うけどなあ。ま、お前がいいんならもう言わないけどさ、あんま月ばっか見てると吸血鬼になっちまうぞ」
「え…」
体がこわばる。一息で青褪めた顔に慌てたのか、男はとりなすように早口で繕った。
「あー違うって! 本当になるわけじゃないから! ほら、言うこと訊かない子供に親が例え話して叱るようなもんだって、な!」
「お、脅かさないでくださいよ!」
今の自分には鬼門の話題だ。吸血鬼などと。
吸血鬼について、知っていることはごく僅かだ。主食は人間の血で、ある程度飲まなくても死にはしないが、能力が徐々に衰え始める。銀と物理的に血を絶やす火に弱い。太陽の光で体が溶けたり、干乾びたりする種族がいる。度を超えて血を吸われた人間は味わったことのない快楽に溺れ、病みつきになるとか。
それと、ひどく残虐だ。笑いながら人の血を貪る。
「吸血鬼なんて、冗談じゃない」
「…んー、お節介だけど、全部が全部、ひどい奴ばっかじゃねえよ。気のいい奴もいるさ。俺の友達にもいるし。今度会わせてやるよ!」
「い、いい! いらない!」
本当にお節介だ。
激しい拒絶に男は気を悪くした様子もなく、快哉に笑っている。
明るい男だ。周りと融和するのにずいぶん長けていて、対人関係はとても円満なのだろう。
吸血鬼の全てがあんなではないという言葉は、親をなくす前の自分なら信じたろう。あの街だって、吸血鬼はいた。少し気が荒かったけれど、過ぎた乱暴はしていないように見えた。けれどあの日だけは。
拳を目に押し当てる。なんて情けない。締めた腕が大きく戦慄いている。その震えを感じ、手の先から押し寄せる死の臭いの冷たさに泣きそうになるのを堪えながら、意識が黒く、暗く、深いところへ沈んでいき、
そして…
「おいルーネス、起きろ! 早く!」
初めて聴く男の焦れた声に、ルーネスは目を覚ました。
幌馬車は止まっていて、幌の古びた布切れからは、暗闇と黄昏がまざった色がさしこんでいる。ほとんど丸一日も眠ってしまったのか。ここ最近の睡眠時間を考えれば、無理からぬことかもしれない。
外はずいぶんと騒がしかった。起きてこないルーネスを、わざわざ起こしにきてくれたのだろうか。
かたい板きれの上で長く寝そべっていたせいか、下にしていた左肩がなかなかうまく動かせない。身をよじり何とか仰向けになってしばらく瞬きを繰り返す。肩を揉んでいる最中も、男は忙しなくルーネスの覚醒を促している。
うるさいなあ。
また目をこすり、鼻をすすり、欠伸をしてから身を起こす。左手がじんとして滞っていた血が流れるのを感じて、ふと気付いた。酒屋か店の喧騒にしては、人の声が大きすぎる。
男の声はもう聞こえない。代わりに、上ずった笑い声と下卑た野次が馬車のすぐ近くで響く。
ルーネスが何事かと立ち上がると、馬車がそのままぐるりと横倒しになった。積み荷の木箱がごろごろ、ルーネスに角をしこたまぶつけては好きに飛び交っている。たまらず転がり出たルーネスに、嘲弄の笑い声が降りかかる。
「あれ、人間のガキじゃん」
「おいおい中身確かめてから使えよな」
力場思念(ハイド・ハンド)。重力を無視して壁に立ったり、離れたものを動かすことができる、彼ら吸血鬼の能力のひとつ。
チョコボが逃げた馬車の車輪が真っ二つに割れているのに気づいて、ルーネスは身震いする。彼らは人間に触れることなく人間を殺せる。怖い。血を吸われるにしたって、縊り殺されるにしたって、未知とはこんなに恐ろしい。
下腹部がじわりと濡れる。その様を見て、目の前の彼らは面白おかしく囃したてる。
ルーネスはへたり込んで震えながら、姿のない男を内心で罵った。
吸血鬼に善人はいない。男の知り合いの、気のいいらしいそれは、目の前の牙をむき出しにして嗤う彼らとはきっと別の種族だ。
吸血鬼など、みんな死んでしまえばいいのにっ!
「おい」
「あ?」
「このごろつきはお前らの連れか」
ルーネスの後ろの路から、ひっそりとした声が湧いてきた。次いで、薄汚れた格好の、鼻が潰れた男が放られる。動けやしないルーネスは男を投げた者の顔を振り返って見ることはできないが、対峙したごろつきは俄かに色めき立った。
「へえ、きれいな顔してるな、あんた。女みてえ」
「美醜に興味はないが、お前らに比べれば綺麗なんじゃないか?」
倒れた男を蹴り出し、うっすら笑いを含んだ声。男たちの顔が苛立たしげに歪み始める。
逃げろと。そう叫びたい。目の前にいる男たちは、吸血鬼だ。人間ではとうてい太刀打ちできない化け物だと。
なのに足は先からぐにゃりと力が抜け、上体を支える腕は突っ張ったまま、ぶるぶる激しく震えているだけで、声は一向に出てきそうにない。
「なああんた、その首差し出す気はないか? 知ってるだろ、吸血鬼に血を吸われると、中毒になるほど気持ちイイんだと。あんた綺麗だから、目にかけてやっても、」
「そういう趣味はお互いで満足してろ。俺を巻き込むな」
「…はん。そりゃ悪かった。俺ら醜男はそういう誘いにとんと縁がないもんでね。その綺麗な顔、火傷でもして台無しにすれば俺たちの気持ちも少しはわかるんじゃねえかっ?」
鈍い破裂音と熱に、今度こそルーネスは振り返った。人の大きさをした火柱が勢いよく燃え上っている。明らかに人為的だが、何もないところから発火するわけがない。ルーネスは振り返ったままの姿で硬直する。
その火柱が、何とものんびりした声をあげた。
「ふん、さすがに視経発火の力は弱いな。転びたてから抜けた程度か。よく喋ることだ」
外套らしい羽織を一枚脱いだだけで火を退けた彼の姿は、丸腰の上に薄着だ。焦げ臭い臭いのする外套を指先で摘まんで静かに続ける。
「やれやれ、気に入ってた防火性の一張羅なのに、どうしてくれるんだ。夜明けまでに帰らなけりゃいけないじゃないか」
「何だ、お仲間かよ。名乗れ」
「古血に払う敬意もない屑に教えてやる名前は、持ち合わせてない」
「オールド・ブラッド……? ああ、あんたか、北の森の引きこもりってのは。どんなじじいかと思えば、単なるガキじゃねえか」
「……お前たちの『父』か『母』がなってないのか、お前たちの頭が弱いのか、どちらでもいいが、言葉に気をつけるべきだったな。俺は、俺の顔を揶揄する下品な口を持つ奴を―――とりあえず灰に還すことにしている」
ルーネスは男の姿を見て思った。
彼こそ本物の吸血鬼だ。
月の光の色をした髪が方々にはねている。縦長に細い瞳孔を持つ薄い緑青の瞳。通った鼻梁と不機嫌に結ばれた口元。全体を通して不遜で屹然として、放つ雰囲気はひどく残酷だった。壊してやろうか、煮てやろうか、焼いてやろうか、考えてはいても、顔ではなく纏う空気に滲ませているそれは、転びたてと揶揄されるごろつきにはない重さである。
ゆっくり歩く足に頭を踏みぬかれた、依然気絶したままの男。もしかしたらこの男が一番楽に死ねたのかもしれない。
「本当に、外はろくなことがない」
その美しい吸血鬼は、つまらなそうに男を睥睨した。先ほどとは比べ物にならない甲高い爆発音と熱量を以て、男たちは声をあげながら炭化していく。その声が徐々に濁声になり、泡のように打ち消えて、その体も形骸化して崩れていくのを相変わらず吸血鬼は無表情で見つめている。しかしおもむろに道端へ歩み寄ると、途端に嘔吐したものだ。
げろげろびしゃびしゃ胃液を吐きながら 「もううんざりだ」 と本当につらそうに泣きごとを言った吸血鬼は、ルーネスに気づく様子もなく、ふらりと覚束ない足取りで、住民が逃げて広々と拓けた路を、北へ歩いてゆく。
北の森の引きこもり。
なんで引きこもりなんだろう。
なぜか気になって、それでも気力が底をついて、ズボンを濡らしたままルーネスは静かに目を閉じた。
(091031)