Der Vogel mag nicht Beengtheit.(鳥は閉塞を嫌う。)
子供の頃の記憶は、正直あまりしっかりとは残っていない。ただ、街を焼き払った炎と人間を見下し、嗤っていた男の声はいつも忘れられずにいた。悠然と町を闊歩し、倒れ伏した町人を踏み拉き、瓦礫に埋もれて夜闇を焦がさんとする炎に捲かれていたフリオニールを見て、腹が透くとでも言いたげに嗤っていたその口元から覗くのは、人間にはあり得ない成長した牙。
吸血鬼。
十余年も経て、記憶の詳細を防衛機構によって失った現在、その言葉から受ける印象は複雑になっている。己の帰る場所を消し去ったのが吸血鬼なら、あのとき死んでもおかしくなかった自分を救ったのもまた、吸血鬼であったからだ。
あの男がまるで火に飛び込む羽虫を見ているかのように小馬鹿にした笑みで去った後、フリオニールはしばらく呆然と目の前の阿鼻獄と化した光景を見ていた。倒れ伏した人々をゆっくりにじり寄ってきた炎が舐めるように包み、みるみるうちに爛れさせてゆく。肉が中途半端に焼け、脂肪が火を広げ、血が沸騰する、五感の全てに訴えかける惨状を泣けもせずに見ていた。自分の後ろからも熱が押し寄せるが、瓦礫の下敷きになった体は、子供の力ではどうにもできない。生きたまま、目の前でぐずぐずしながら燃える知り合いと同じ途を辿るのか。子供ながらそこまで理解しても、現実味が湧かない。体は打ち見で絶えまなく痛み、そろそろ足の先が熱で腫れ始めている。
もう死ぬのか。父さんも母さんも、いなくなったのかな。なんだか暖かくて、目を開けていられない。
…………………、
………………、
……………、
…………、
………、
……、
…。
「死んじゃ駄目!」
フリオニールは目を開けた。
火の勢いは変わってない。相変わらず何もかもが焼ける、胸が詰まるみたいなひどい臭いが辺りに漂っている。けれど、さっきまでいなかった少女が、フリオニールの小さな手をしっかり握っていた。
緩く巻いた長い髪を後ろでひとつにまとめた、可愛らしい少女だ。その少女は火の勢いが強くなるたび、熱風に怯えるように身をこわばらせているが、決して手を放そうとはしなかった。
フリオニールは気づいた。フリオニールの意識を繋ぎ止めようと手をきつく握る少女の食い縛っている歯が、鋭く尖っていることに。
吸血鬼じゃあないか!
恐怖で思わず震えたフリオニールの手に、少女は泣きそうになりながらも微笑んだ。握り返してくれたと思ったのだろう。柔らかな笑顔は、子供心にとても美しく見えた。
「大丈夫、ぜったい助けるから」
それから少女がどう自分を助けてくれたかははっきり覚えていない。気がつけば空は明るく、故郷は遠く、傍らにはあの少女が慈しみに満ちた女神のような笑みでフリオニールに水を差しだしていた。
日の光の下でも素肌を晒す彼女に、呆然としたフリオニールの開口一番が、 「何で灰にならないんだ?」 足の水ぶくれの手当てまでしてもらっておいてとんだ無礼だが、けれどフリオニールが教えられた吸血鬼像に則るとするなら、彼女は太陽の光を浴びた時点で醜く玉のようなその肌を爛れさせながら身を崩して風化しなければならないのだ。
彼女は悲しげに、しかし依然笑みを絶やさずに口を開く。
「私の血統は、日の光を浴びても死なないの」
「死なない?」
「そう。<術師>の血統は日光を不得手としない」
「けっ…とう……」
少女の言った言葉のおよそ半分も、残念ながらそちらの知識に明るくないフリオニールは理解することができない。しかし少なくともフリオニールの目の前にいる少女は、今まで大人たちから吹き込まれた知識のあてが外れる存在であるのだと知った。
知らなければならない。いつか、フリオニールの故郷を焼いたあの吸血鬼を殺すためには、今までの俄か知識では駄目なのだ。
唐突に湧いたあの男への憎悪を胸に、フリオニールは少女を見る。
少女は、見かけだけならばあと少しで女性に変わるだろう短い瞬間を生きているような年ごろだ。それでも、フリオニールよりもずっと年上に違いない。吸血鬼という点を差し引けば、寧ろ好意に値する笑みを浮かべているけれども。
「君は俺はどうする気だ」
「そう…ね。とりあえず、あなたを保護してくれるところを探そうと思ってるのだけど」
ほら。
こういうところが、わからなくなる。このままフリオニールが吸血鬼の全てを憎んでいいのか踏み止まらせる優しい声音。
「君は、これからどうするつもりだ」
少女はゆっくりと瞬きを一回二回と続けてフリオニールの問いを反芻した後、ふわりと笑みの質を変えていった。
「捜したいヒトがいるの」
まるで綻んだ花を見ているような、身の内から生気が溢れ出ているかのような、活き活きとした顔。他者に向ける慈しみとは違う、自らの幸せを語る笑顔だ。
「大切な、人間なのか」
「人間じゃないんだけど…うん」
壊れ易い宝物を抱えるように丁寧なしぐさで、胸の前で指を絡める。まるで祈るような格好だが、神に陶酔している雰囲気は一切ない。少女はそんな姿でフリオニールに笑いかける。短い間にいくつも彼女の笑った顔を見てきたが、一番幸せそうな顔をしていた。
「大切なヒトに、なったらいいな」
夢を語る甘やかな乙女の声ではない。どんなに苦労を背負ったってかまわないという決意を隠した、強い者が持つことを許された力強い声。
フリオニールは、その笑顔を見るのが苦しかった。
はっきり言って、ティーダがダンピールだとわかったとき、フリオニールが感じたのはあの少女の笑顔を前にしたときと同様の苦々しさだった。
生まれがどうであれ、屈強に生き抜こうとする正直な立ち姿。そして何より、フリオニールに手を引かれながら子供のように泣くティーダは、吸血鬼に劣ると言われているものの人間よりも遥かに優れた能力を持っていることを理由に驕る愚か者ではなく、純粋な心のままに生きる清々しさを窺わせていた。
未だに複雑な思いを抱く吸血鬼という種族。少女から聞いた話だけでも、彼らは人間と同じような個性を持っている。会ったことは実際にはないが、それなりの人格者もいるようだ。ただ、彼女は自分を吸血鬼にした者の話や、捜しているという吸血鬼の話になると、とたんに悲しげな顔をしたのだけど。
フリオニールがティーダと共に行動するようになってから入れ替わるようにいなくなってしまった彼女は、会いたがっていた者に会えたのだろうか。
「フリオニール!」
音を立てて目の前に積まれた木箱と大きな声に、フリオニールははたと己の作業が滞っているのに気づいた。
「もー、何ぼさっとしてんスか!」
「すまない。けど、請け負った品物はもう少し大切に扱えよ」
「へいへい」
フリオニールの前に落とした木箱の数々を、ティーダは再び抱え上げる。フリオニールにも持てない数ではないけれど、ティーダのように箱をいくつも持ったまま小走りすることはできない。その平衡感覚はやはり、人間とダンピールの差だな、と思う。
ティーダと各所を転々とするようになって打ち明けられたが、ティーダには吸血鬼が持ち、本来ダンピールにも備わるという能力を全く有さずに生まれたらしい。そのせいか父が吸血鬼であるにも関わらず、吸血鬼の血統について詳しく知らないのだという。父がどの血統のどの位に属するか、全く教えてもらえなかったと。
フリオニールと話していて、ティーダが寂しそうに 「俺、親父のこと何も知らなかったんスね。毎日喧嘩してたのにさ」 と言うのに、既に天涯孤独の身であるフリオニールは気の利いたことを何ひとつ言えやしなかった。その後に殊更明るく 「別に、吸血鬼になりたいなんて思ってなかったから、どうでもいいッスけど!」 と続けられても、フリオニールは黙って頷くしかできなかったし、求められなかったのだ。
人と吸血鬼の間に望まれて生まれたというのに、人と吸血鬼の両方から疎まれる存在。板挟みの弾圧がどれほど苦痛か、人の視線に怯むティーダの傷から推し量るに難くない。
血筋が一種の心の拠り所になっている吸血鬼はまだしも、せめて人々の間からダンピールに対する偏見がなくなればいいのに。
そんなことを願いつつも、日当手当てで食い繋ぎながら自分の生活を切り盛りするのでいっぱいいっぱいの二人のもとに、ある日、何でも屋を名乗る二人組の男がやってきた。金髪の少年と少年のような屈託のない顔の青年は、ジタン、バッツとそれぞれ名乗った。
日給で遣り繰りするフリオニールやティーダに知名などあるはずもなく、何故彼らがわざわざ二人のねぐらを訪ねてくるのか不思議でならないフリオニールは首を傾げる。しかしティーダは、小柄な金髪の少年ジタンを見て呆然と呟いた。
「……ダンピール?」
どこか自分と同族の者がいると信じられずに亡羊たるティーダの声に、ジタンは否定もせずに微苦笑をこぼした。よく見ればその淡い青色を浮かべる瞳の左は鋭い瞳孔になっている。
「そういう反応、けっこう久しぶりだな」
「え、あ…ごめん…」
「いいよ、別に。気にしたところでキリねーし」
あっけらかんとして笑うジタン。彼はティーダより年下に見受けられるが、ティーダほど人の顔色を窺う素振りはない。
けれどフリオニールは殊更、ダンピールが来た理由を怪訝に思う。ティーダがダンピールだと陰口を叩く褒められない輩にこの場所を聞いたのだろうが、特に何かを強要しにきた様子も見られない。連れも普通の人間のようだ。
ジタンは警戒するフリオニールに丸腰を示すようにして諸手をひらりと振った後、如何すべきかという顔でバッツを見た。
「…どうすりゃいい?」
「どうもこうも、頼まれたことそのままに言えばいいんじゃねー?」
「普通こういうのって本人が言うべきだと俺は思うけど」
その本人がなあ。忙しいんだよなあ、今。
なかなか本題を切り出せずにもたもたまごついているジタンに、ティーダも不審げに顔をしかめる。
「何なんスか、あんたら。言いたいことがあったらはっきり言えばいいじゃないッスか」
「ほら、あちらさんもそう言ってるし」
「うるせーバッツ。そもそも何で俺だけこんな頭の痛い思いしなけりゃいけないんだ、ちくしょう」
苛立たしげに頭を掻きむしったジタンは、何故か救いを求める目をフリオニールへ向けた。
「始祖コスモス、または<賢者>の名を知ってるか?」
フリオニールは頷いた。変わり者の中でも特に変わっている吸血鬼で、人間との融和を図っているとあの少女から聞いていた。
ジタンは安心したように笑う。コスモスにまつわることから話すのは、ちょっと骨が折れるのだという。
「その身内からの頼みごとなんだけどさ」
「身内?」
「直系だよ」
吸血鬼の話題だからというわけではないけど、少女の顔が浮かんだ。そういえば、触りだけそんなことも話してくれたのだったか。
フリオニールはジタンを見た。彼は、今から自分が言うべき言葉を苦々しく思っているような顔をしている。どうしたのだろうか。ティーダも困惑げに首を捻っている。
ジタンは唇を戦慄かせ、八つ当たり気味にバッツの足を蹴ってようやく思い切って口を開いた。
「重役ポストに、就いて、みない、か…?」
沈黙が落ちる。
「怪しさ大爆発ッスね…」 思わず呟いたといった様相のティーダに大いに賛同したいフリオニールであったが、ジタンの顔を見る限り、言葉の拙さを一番に理解しているのは、何より口にした本人なのだろう。
(091128)