ゼロレクイエムから幾許の時が流れた。悪逆と罵られた稀代の悪政を強いた皇帝が、死を以て崩御したのと同じく。
アッシュフォード学園を卒業したジノが本格的に元中華連邦の政庁に勤め始めて、ようやっと具合を掴めた頃合である。もう成人して落ち着いたのではと当たりをつける学生時代を知る人間は、あまり変わらないジノのその気性に、呆れたり懐かしんで目を眇めたりしている。
悪逆皇帝に離叛したとして、あの戦争のきっかけとなったブリタニアに仕えていたジノは常の風当たりとは別の場に立っていられるが、ブリタニアと他植民地エリアの人間は、彼が皇帝に即位して圧政を開始してからの扱いにそう差異はない。ちゃんと気づいたのはゼロレクイエムの爪痕を埋めるように急転換された政策が軌道に乗り始めた頃。気づいたときは、思わず出し抜かれたと笑い出しそうになってしまった。
ジノの記憶の中にいる、今は名前を呼ぶのすら忌まわしく憚られてしまう彼は、いつもひどく綺麗な面差ししかない。
アッシュフォード学園の生徒会副会長であり、会長のミレイに振り回されて困り顔をしつつも可能な限りその無茶な要望を叶えようと尽力し、リヴァルと仲良さげに肩を組んでひそひそ内緒話をしてはほくそ笑み、時折スザクを言いようのない複雑な目で見つめ、弟をこれ以上ないほど慈しんでいたとか、ごく少ない事柄ばかりだ。中途編入で後輩として転入してきたジノやアーニャにはどこかぎこちなかったが、後にロイド・アスプルンド伯爵(貴族制度はとうの昔になくなっているけれど。それもまた、彼が行った政治のひとつと思うと、結果的に善政となったというのに妙に変な気分だ)から横流しされた彼の資料と口述から、そのぎこちなさの理由が知れた。ああ、彼が存在を抹消された元皇族だったのなら、憎い皇帝の騎士であるラウンズを警戒していたのもわかる。
彼や自分の背景がなかったなら、もしかして健全な先輩後輩の関係が築けたのではないかと少し考えるが、しかしそれはあくまで希望的観測であり、皇帝を謀殺し果せた当時は当然のこと、今も、正直素直に一から関係を築く気はあまりない。
何より彼はゼロに殺され、妹のナナリーが止める間もなく遺体を吊し上げられた。死者に対する尊厳は憎しみの前ではひたすらに無意味なのだと、抵抗することのできない遺体を荒らすのは弱者救済の理念に反すると説いたゼロに差し控えられた、若干傷みが激しい遺体の埋葬を静かに執り行う彼の知人の中に己がいることを不思議に思いながら、考える。
最後に見た彼の死に顔は、穏やかだった。皇帝に即位してからメディアに晒された醜い笑みではなく、ジノの知る、人への慈しみに満ちたやすらかな寝顔。小さな葬式の参列で、泣かなかった者がいなかったほど、学園の生活で彼は慕われていた。誰しもが社会人になり、おいそれと私事に打ち込めなくなった今でも、ひっそりと隠された墓石に花は絶えないらしい。
記憶がひどく曖昧になりがちだったアーニャは、自分がかつて閃光のマリアンヌと畏怖された故マリアンヌ皇后が住まわれたアリエス離宮の侍女だったのだと、ゼロレクイエムの後にふとこぼした。ならばその息子の彼とも面識があったのではないかとジノの疑問に膨れ面で更にこぼす。
「ルルーシュは、嘘つき。嘘をつくルルーシュは、嫌い。大嫌い」
相変わらず感情の起伏が年甲斐もなく薄っぺらい彼女は、ならば、嘘をつかないまっさらな彼ならば、何のわだかまりもなく付き合っていけたというのか。それを問うには、喉元を這い上がる忸怩たる思いが苦すぎた。ひどくされたのに、取り縋って兄を求めた皇女殿下とは、仲が良かったことだし。
あなたのいない明日は、わたしにとってのやさしい世界にはならないのに…!
(頭が良いくせに、馬鹿だよなぁ、センパイは)
遺体から引き離されてあんなに取り乱していたその皇女殿下──ナナリーは、今や一人前に日本首相や皇家と手を結び、戦災復興に尽くしている(未だ兄の死に際を夢見て飛び起きるようだけれど、アーニャ曰わく)。目は見えるようになったようだが足が治らないままの彼女の車椅子を牽くのは、あのゼロだった。ゼロが以前のゼロと違うことくらい、動きを見ていればわかるが(そしてその人にあらざる動きが、かつての同僚であり、最後の皇帝の隣で騎士として立っていた男であることも)、ナナリーの車椅子を牽く手腕はずいぶん柔らかで。
ゼロならば、以前のゼロならば、彼女にどう接していただろうか。
初代ゼロ。それがあの悪逆皇帝と知っている人間は、案外多い。皇帝が死んだ当時に気づいた人間は少ないだろうが、その後のゼロの行動が少し短絡になった辺りから何となく察した人間は多い。ただしかし、アッシュフォード学園に在籍していたとある二人の生徒を知る人間に限り。
「世の中ずいぶん円満になったよなあ。そう思わない?」
「さあな。私は円満だろうが円満でなかろうが、どっちだっていい」
「そういうこと言うと、苦労してこの世の中を作ってくれた誰かさんが報われないよ」
「死人に口なしという言葉を知らないのか」
遠慮を知らないその物言いに、ジノは眉を上げて後ろを見やる。
死者に無礼を働く彼女は、皮肉げな笑みを口元に履いて、ジノが案内したソファの上で優雅に足を組んでいる。裾の長いスカートはどこぞの高山地帯の服のようで、結ばれた長い髪と相俟ってとても素朴に見えるが、フェミニストを自負するジノはしかしながら手を取るほどの気遣いなどしてやらなかった。
萌黄の髪と猫のような金目の彼女は、黒の騎士団設立当初から皇帝崩御まで、有り体に言えば彼が導いてきた結果の如何に関係なく、彼の傍らに居続けた女だった。一時はゼロの愛人とまで言わしめたほど親密な仲だったらしいその女は、けれど彼と死に別れたというのに、その顔に悲壮感はあまりない。その姿を見かけたジノが一度話してみたかったが故に招いてから今まで、本当に行動を共にしていたとはとても思えないほど。
ジノは苦笑いをこぼして言った。
「だったら君は、あの結果に納得してるのか?」
「納得? まさか。あんな最後に満足しているのは、何も知らない人間と画策した本人だけさ。これで誰もが幸せになれると考えているあたり、特に後者は性質が悪い」
「これは手厳しい」
「こんな生温い叱責で手厳しいなんて、元ラウンズは子供の集まりらしいな。もしあいつが目の前にいたら、もっと言ってやるぞ」
「でも君は最後まで一緒にいながら、止めなかった。そうだろ?」
少女は年に見合わぬ渋い顔で黙り込む。散々言われて一矢報い、ジノは内心で溜まっていた鬱憤の溜飲を下げる。そんなジノの小さな満足を見抜いたかは知れないが、少女は渋面のまま、 「共にいたからこそ、止められるか」 と呟いた。
「親に対する憎しみ、妹一人も守れない不甲斐なさ、現状を打破できない無力感、そういった怏々としたものを一人で背負い込んでいるのを見ていたから、止めなかった。結果自分の死に繋がったとしてもそれが最善なら構わないと覚悟を決めた奴を、どうして止められる?」
お前は止められたかと逆に訊かれ、ジノは首を振った。
状況こそ異なれど、死を覚悟したことはジノにだって何回かある。しかしそれは、どこか仕方ないなと諦観めいたものがあった。
潔く頑強な気迫を帯びるその意志とは絶対的に、根本的に違うのだ。
「水を差すようなことも言えなければ、真似だってできやしないよ」
「ならば黙っていることだ、ヴァインベルグの坊や」
「坊やはないだろう。これでも一応成人したんだぜ?」
「私にして見ればまだまだ子供さ」
晴れやかに笑う彼女を見ながら、ジノは思う。
愛人や恋人でもなく、彼と自らの関係をあくまで共犯者と名付けた彼女は、直接手を下した当代のゼロのように、気持ちに区切りをつけるきっかけを持たなかったと見える。共犯でありながら片棒を担いだのが彼女ではないことに対して、当人はどんな感慨で今を過ごしているのか。憐憫か悲しみか安堵か、それすらジノにはわからない。
独り遺されるというのは、どのような気持ちなのだろう。
「…君は、辛くない?」
「何故」
「何故って、」
「あいつに限らず今までだって別れは経験してきた。そのどれもが、辛くて、悲しい。そういうものだ」
達観というのだろうか、これは。
先程とは一転、穏やかにどこかへ想いを馳せる目は、女のようでもあり、母のようでもある。
「あいつに言われたんだ。どうせ死ぬなら笑って死ねと」
まるで誇らしげに大切な宝物をそっと見せる子供がごとき密やかな声で告げる少女の言葉で彼の末期が甦る。
穏やかな死に顔。達成感が満ち満ちた、微笑み。ジノの中で幾度となく再生される、魔王の真に安らいだ顔。
ソファから立ち上がった少女は、痛ましげに眉を寄せるジノを一顧だにせず、部屋を出ようとする。その背にふと問いかけた。
「これからどうするんだ」
少女は応える。
「明日の希望を探しにゆくよ。
私はC.C.だからな」
そして彼女が愛した魔王の名前は、とても美しく。