私達はいわば二回この世に生まれる
一回目は存在するために
二回目は生きるために
ルソー
にこ、と笑った幼少の頃の彼が夢に出てきた。警戒心剥き出しの初対面の頃には思いもよらない明るい笑顔だった。
目も見えない、足も動かない、余所の国へ政略で嫁がせる価値すら失った妹を守りながら、外交手段として遣わされた知らない土地で毅然と立ち向かった彼は、当時、力をもてあまし他者への暴力という形でしか発散できなかった自分からしてみれば、少し外観の変わったその強さを理解することは易くなかった。
ブリキと罵られ、石を投げつけられ、時には多勢に囲まれて直接手を出されようが、彼は涙どころか泣き言ひとつこぼさずに妹の世話をし続けた。今から思えば、目が見えない代わりに周りの機微に聡い妹がよけいな心配をしないように(それが本当に彼女にとってよけいかどうかなど、彼は考えもしなかったに違いない)と計らっていただけで、決して彼自身が辛くなかったわけではないのだと、理解できるけれど。
かくいうスザクも、その美しくも互いに依存しないと生きていけなかった倒錯的な兄妹に最初から友好的だったかと問われれば、答えは確固たる否である。
父が首相であったばかりに中途半端な矜持が作り上げられていた上に、当時ブリタニアとの交戦の最中故に(それでも彼らが渡日してきた時分は、戦時中の中では比較的穏やかな日々が続いていた)お互いあまり良い印象を持っていなかった相関で、敵愾心をそのままにスザクら枢木神社の者を見つめていた彼らに友好的な歩み寄りを試みる気にすらならなかったのだから。
「おいブリキ」
「僕はブリキなんて名前じゃない。それとも日本人は、紹介された名前すら覚えていられないのか?」
「うるさい!捨てられた子供のくせに!」
その言葉に、決して矜持の低いわけではなかった子供が、口惜しげに唇を噛んで生意気にスザクを睨んでいた理由を、ついぞスザクは知る由もなかった。
そんな遣り取りが当たり前だったのだ。少なくとも、母国語でないにも関わらず、言葉巧みにスザクを言い負かす兄のルルーシュをスザクが暴力で黙らせるのが常であった。自分を正当化することでいっぱいだったスザクに、理不尽な暴力に耐え忍び、暗い土倉で妹を守り抜く決意を固めていたルルーシュの気持ちは向こう当分、わからないものだったのである。
「お前、何でやり返さないんだよ」
「……………」
「殴られてばっかで、何で黙っていられるんだよ」
ルルーシュは目線を合わそうとするスザクから顔をそらし、黙りこくった。
顔を腫らしたルルーシュが、後生大事そうに買い物袋を抱えて帰ってきたとき、妹のナナリーが様相のおかしな兄に聞いたのだ。ルルーシュが告げる山道を滑って転んだんだとの説明に、訝りながらも納得したナナリーに声が届かないところまでルルーシュを引きずって、尋問するに至る。
砂塵にまみれたルルーシュの格好は確かに転んだという言い訳に信憑たらしめるに十分だが、どんなに強く地面に顔を打ち付けたところで頬は腫れたりしないだろう。ご丁寧にも背中に残る足跡を指摘されたルルーシュは、眉をしかめて鼻を鳴らした。
「僕がやり返したら、連中はもっと数を増やしてやり返しにくるかもしれない。その時ナナリーが傍にいたらどうなる?ナナリーが無事なままでいられる保証なんてどこにもない」
僕が大人しくやられていれば、ナナリーに手は及ばない。
断言するルルーシュが、スザクにはわからなかった。お世辞にもルルーシュには相手を負かすだけの体力や力があるようには見えない。ただ、口先だけの負け犬が無駄に息巻いているようにしか見えなかったのだ。
「じゃあ、俺が守ってやる。お前もナナリーも、一応大切な預かり物だからな!」
「君が?ナナリーと僕を?冗談だろ」
「冗談じゃない!二人いっぺんに守ってやる!」
豪語した理由は、売り言葉買い言葉かもしれない。ただ単純に、優越に浸りたかっただけかもしれない。けれど、口にしたからには実践で示すつもりでいた。互いに互いしかいない彼らが、とにかく自分とは一線画した場所にいるのだと、その場所は彼らにとって守られるべき最後の砦だと、そう意識していた。
その内両国の提案が食い違い、停戦に持ち込めないまま戦争は激化して、結局その決意は目に見える形になる前に、対象の二人が戦火の内に消え、行方知れずになって七年の時が経過したのち。
「お前は変わったな」
「ルルーシュも。ずいぶんがさつになったよね」
せっかく会えたのに。
彼は何ひとつ変わっていなかった。
あれから七年の長い時間で、幼かった彼らがどうやって生きていけたのかは所詮想像に頼るしかないが、あまり想像力豊かではない自分のそれでも、二人で寄り添いながら生きてゆくには並々ならぬ苦労を強いられたに違いないことくらいはわかる。ルルーシュは特に、ナナリーに不自由を感じさせないことに心血を注いだのだろう。長く無骨に成長したが、過去、家事炊事に苦戦した跡が生々しく残っていながらも、妹を懸命に守っていた美しい掌のままだった。
例えば言葉が少々乱暴になったとしても、例えば真面目さを少し欠いたとしても、彼の行動の根底にある理由は、ずっとずっと変わらない。それは自分が一番よく知っていたはずなのに。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうね」
夢の中の小さな彼は、笑ったまま何も言わない。知っているだろうと諭われているようだった。
ブリタニアを、ぶっ壊すっ
年端もゆかぬあの頃から、彼は母国に矛を向ける決意をしていたのだ。鎮火されることも埋没して忘れることもなく、彼はその憤りを胸の内で静かに静かに燻らせていたのだ。それを、わかっていながらにして子供の戯言だと決めつけまともに取り合おうともせず、彼の実直な真意を理解せず、目視を避け続いていたのは他ならぬ自分である。この結果は、自分のいたらなさが招いた惨事なのだ。
けれども、その責任を果たすことはできない。疾うに自分は彼を敵と見定め、憎むべき相手として剣を取ることを決めてしまった。きっと自分がブリタニア軍に従属することを潔しとしてしまってから、決定的に道を違えてしまったのだろう。それを悔いているか否かの煩悶の結果が、これなのだろう。
今日も、怏々たる夢の中で、終始笑顔の彼に言葉なき責め句を負わされる。
彼は、この夢はきっと親友に刀を向けた自分への断罪なのだ。
(あいつは今でも泣いてる。お前が敵対していたとわかったときから、ずっと泣いてるぞ)
魔女の声が聞こえた気がした。
(08.04.13.)